これはなんだろう、と思った。
判断が遅れる。
――それくらい、思いもかけないことだった。
子供たちは部屋に戻って眠った頃だろう。
もうそろそろ自分たちも寝ようかと話していた。
明日の朝食やムウのお弁当の下ごしらえも終わったし、あとは戸締りのチェックをするだけで。
だから気付かなかった。
子供たちがここにいるなんて。
急な出来事に、判断が鈍る。
どうして。
思う間もなかった。
だって胸が。
張り裂けそうに痛くて。
『おかあさん』
いたずらっぽい笑顔が眩しい。
『お誕生日、おめでとう』
声が出なかった。
多分これが、最近で一番幸せな瞬間。
驚いた母の表情を前に、子供たちは楽しそうに手に持つ『それ』を差し出す。
それは、その日彼らがこっそり買って帰ったプレゼント。
ふたりで選んで、ふたりで買った。
おかあさんに喜んでもらいたかったから。
「……わたしに……?」
絞りだすような声に、子供たちは同じタイミングで頷いて。
「決めてたんだ、今日になったら渡すって」
そう云って零れんばかりの笑顔を浮かべるのはムウで。
「おかあさんが生まれたの、日付が変わってすぐだって聞いたから」
その隣でラウは静かに、しかし確かに微笑んでいた。
この日が自分の誕生日だと、気付いていなかったわけではない。
夫は今日の夕方、仕事帰りにケーキを買ってくると云っていたし、子供たちは前々からパーティをするのだと云っていて。
それだけでも、充分に嬉しかったのに。
こんな、予想もしないハプニング。
「……かあさん?」
プレゼントの箱を受け取ったまま俯いてしまった母を、ムウは心配そうに見上げた。
何か気に入らないことでもあったのだろうか、とその顔には書いてある。
早く寝ろと云われたのに寝なかったから怒っているのかも、と青くなる様子に、ラウは呆れたような目を向けていて。
「開けても、いい?」
ようやく声になったありきたりな台詞にも、ムウは嬉しそうに首を縦に振った。
両手に乗る大きさのプレゼントには、目を引く鮮やかな赤いリボンがかけられている。
綺麗に結んではあるが、全体的なバランスが少し悪い。
もしかしたら子供たちがかけてくれたのかもしれない、そう思うと嬉しくて。
震える指先でリボンを解き、包装紙を剥がそうと箱を持ち上げた際、ラウが突然背を向けた。
理由も云わずに二階に上がって行く姿を、両親と双子の兄は唖然として見送り。
最初に我に返ったのは、ムウだった。
「……ほ、ほらかあさん、早く開けてよ!」
「え、ああ、そうね」
広げた包装紙の中には、箱がひとつ。
さらにその中身を取り出すと、そこにあったのはガラス製の小箱だった。
蓋を開くと、耳あたりの良い高い音が響く。
ガラス製であるからその中身は明確で。
「オルゴール?」
「そう。オレとラウで選んだんだ。ほら、ここも見て」
示された場所を覗くと、箱の中、右半分はオルゴール部分で、左半分は小物入れになっていた。
「アクセサリーとか、細かいのが入るようになってるんだ」
響く音は涼やかで軽い。
思いもかけないそれが、子供たちの笑顔と重なり。
胸がいっぱいになる。
「ありが――」
ぱたぱたぱた、と階段を駆け下りる音がした。
一斉に振り返る。
閉じられていた扉の向こうからは。
――赤。
「ラ、ウ……?」
鮮やかな赤の向こうから覗く明るい金髪は確かに双子の弟で。
俯きがちに差し出すそれを、母は彼から目が離せないまま反射的に受け取った。
「花?」
父の呟きに、やっと母はそれが何なのか理解した。
花、なのだ。薔薇の花。
しかも。
「ペーパークラフトの薔薇……」
一抱えもある花束は、全てが紙でできていた。
それはとてもよくできていて、おそらく遠目には紙だと判断できないだろうほどのもので。
「ラウが、造ったの?」
驚きを隠せずに尋ねると、ラウは小さく頷いた。
その横では、ムウが怒ったような顔をする。
「ずりー、何だよお前だけそんなんつくってさー」
母は知る。
その言葉で。
このプレゼントは、ラウ自身が自らの手で造ったものだと。
「ラウが、ひとりで造ったの?」
本来ならば、こんな風に訊いてはいけないのだと思った。
特にムウの前では。
けれど、訊かずにはいられなかった。確かめなければならない気がした。
しかしラウは、今度はしっかりと母の目を見つめ首を横に振った。
「ひとりじゃ、ない」
きっぱりと云い切る様子に母は困惑した。
ラウには様々な本を与えているが、ペーパークラフトやそれに類するような本を購入した覚えはない。
テレビやコンピュータで何か情報を得るにしても、ラウが見るのはニュースや経済や政治の情報くらいであったし。
確かに調べようと思えばいくらでも調べられるのだが。
極めつけは、ムウがこのことを知らなかったという事実で。
けれどラウはやはりきっぱりと云った。
「ムウがいたから」
「……オレ?」
当のムウも、母と同じように首を傾げていた。
ラウは再び頷く。
「前に、ムウが教えてくれた」
「あ」
そういえば、とムウはだいぶ前のことを思い出す。
あれは確か学校で紙の花の造り方を教わったときだった。
あまり手先が器用でないムウだったが、数種類のうちカーネーションだけは上手く作れるようになって。
それが嬉しくて、家に帰ってラウと一緒に何色ものカーネーションを造ったことがあったのだ。
「お前、あのときの……」
「カーネーションと薔薇は似ていたから。少しだけ、応用した」
だからこれはムウと造ったのだ、とラウは云う。
誇らしげに微笑む姿に、ムウが照れくさそうに笑う。
そんなふたりを、母は半ば呆然と見つめていた。
――ラウにはずっと、認められていないのだと思っていた。
彼が自分たちを慕ってくれているのは知っていた。
けれどやはり、ムウとは違い自分たちは他人なのだと。
普段の彼の、一歩引いたような態度で勝手に判断して。
ふたりきりで理解しあっている子供たちの間に上手く入れないことに焦り。
いつか「本当の家族」になり得る日を願っていた。
愚かなことだ。
目の前にあったそれに、気付こうともしないで。
いつでも、明確な答えをのみ求めていて。
――こんなにも、愛して。
――こんなにも、愛されて。
そんな単純な構図にも気付かないなんて。
馬鹿だ、と思った。
10年間も一緒にいて、こんなことにも気付かないなんて。
母親失格だ、とも思った。
けれど。
「……かあさん?」
ふいに一緒に抱きしめられて、ムウが困惑の声をあげる。
ラウは相変わらず黙ったままだ。
それでも、と母は思う。
彼らが自分を母親だと思ってくれるのなら、自分は彼らの母親でいていいのかもしれない。
慕っていてくれる。
愛していると、心の底から思う。
もしかしたらそれだけで、自分たちは――。
「ありがとう。ムウ、ラウ」
腕の中のぬくもりを、抱き返してくれる小さな手のひらを、決して放すものかと思った。
例えどんなことがあろうとも。
子供たちを寝かしつけた後。
水のない花瓶に花束を生けている妻の後姿に、夫は苦笑する。
「だから云ったろう? あの子たちは、私たちの子だと」
花瓶の傍らに置いておいた小箱の蓋を開け、妻は微笑む。
軽やかな旋律。
このあたたかな気持ちを肯定するかのように。
「ええ――本当に」
――カラダがバラバラになるカンジがする――
痛みを感じるわけではない。苦しい、ともまた少し違っていて。
ただ、心と体が別物になったような感覚に陥って。どうしようもなくつらいのに、対処の仕様はない。
「……っ、くそっ……」
自分の身体を抱きしめるように丸くなって。堅く堅くシーツを握り締めることしかできなかった。