帰宅したムウさんは、既にラウの定位置となったクッションを覗きこみ、ラウの様子とエサ用のお皿に残ったエサの量を確認するとキッチンへと足を向けました。
自分とラウのための夕食を作るためです。
今日もラウは少ししかエサを食べていないので、何か食べやすいものをと台所で少し考え込んでいたムウさんの背中を、ラウが見つめていました。
ラウも、何かがおかしいと気付いたのでしょうか。
ムウさんはいつも、帰るとすぐにラウのところへ来て頭を撫でていきます。
けれど今日は、手を伸ばしはしましたが、気配に気付いたラウが頭を上げ、そのとき頭に指が触れるとびくっとして手を引っこめてしまったのです。
何気なくラウが見つめる前で、ムウさんはいつものように夕食の準備をします。
温めたご飯にスープ、簡単なおかずを並べて黙々と食べるムウさんをしばらく眺めていたラウでしたが、飽きたのか目の前に置かれたミルクに口をつけました。

「……ラウ?」

ムウさんがぽつりと呟いたのは、夕食を食べ終えお風呂にも入ったあと、ソファに座ってぼんやりとテレビを見ていたときでした。
いつの間にか、ラウがムウさんの足元にいるのです。
ムウさんと一緒にお風呂に入ったためふわふわになった身体をすり寄せるように、ラウはムウさんの足の間をすり抜けました。
ラウがこんな風に自分から近寄ってくるのは初めてのことです。
思わずまじまじとラウを見つめていると、ラウがちらりとムウさんを見上げました。

「――」

ラウから視線を逸らすことのないまま、ムウさんはゆっくりと足元に手を伸ばしました。
目の前に下ろされた手を見、もう一度ムウさんを見上げると、ラウは前足をムウさんの手に乗せました。
それを見届けたムウさんは、すくうようにラウを持ち上げると自分の足の上に下ろします。
柔らかな毛を撫でつけても、ラウは嫌がるそぶりを見せません。
じっとムウさんを見つめたままのラウに、ムウさんは静かに笑いました。

「ちゃんと、決めなきゃな……」

自分のこと、ラウのこと、これからのこと、全てを――。








ムウさんの家を訪ねてくる人はとても少なく、それは休日であっても同じことです。
久々に何の予定もない休日、ムウさんは日頃の疲れをそぎ落とすかのようにひたすら惰眠を貪っていました。
一度はラウにエサをやるために起きましたが、その後はまたベッドに潜りこんでだらだらと過ごしていたのです。
開け放した窓からあたたかな風が部屋中を満たして、それはとても気持ちの良い朝でした。

「……っあー?」

家のチャイムが鳴ったような気がして、ムウさんはのっそりと起き上がると玄関へと向かいました。
どうせ新聞の勧誘かなにかだろうと、あまり良くない態度で扉を開けると、そこにはぴしりとスーツを着こんだ真面目そうな男の人が立っていました。

「ムウ・ラ・フラガさんですね?」
「はあ、そうですけど。……あの、どちらさんで?」

真面目というよりむしろお堅いといった風な男の人は、微動だにせず睨むようにムウさんを見ていました。

「先日電話をさしあげた者です」
「あ……」

ということは、彼がラウの飼い主なのでしょう。
安易に答えにたどりつき、ムウさんはどきりとしました。
それと同時に、自分の格好を見て、男の人の目がどことなくきつい理由が何となくわかったので、思わず苦笑してしまいました。

「すいません、もうちょっと待っててください」

有無を云わさず扉を閉めると、ムウさんは慌ててよれよれのシャツを脱ぎ捨てました。
ああいうタイプから見ると、こんな服で人前に出るのはきっと信じられないことなのでしょう。
確かに真面目そうな人ではありましたが、彼が本当にラウの飼い主なのだろうかと思うとムウさんは首を傾げざるを得ませんでした。
どうも彼が、ペットを飼ったり愛でたりするタイプには見えなかったからです。

「でもまぁ、仕方ないよな……」

実をいうと、ムウさんはまだ迷っていました。
ムウさんの気持ちは変わりません。
けれど、ラウがどうなのかは未だによくわからないのです。
あの日、確かに気持ちが繋がったように思えましたが、それでもまだ考えてしまうのです。
一体どうすることが、ラウにとって幸せなのか。

「ラウ」

しかし心を決める前に、タイムリミットはやってきてしまいました。
どうしようもないけれど、せめてたまにでもラウに会わせてもらえるよう交渉しようと思いながら、ムウさんは最後のお別れのためにラウを呼びました。

「ラウー」

先刻までそこにいたはずのラウがいません。
部屋を見回してもキッチンを覗いてもラウの姿が見えず、ムウさんは戸惑いました。

「……ラウ?」

ふわりと風が動き、窓を開け放していたことを思い出したムウさんは窓の外に顔を出しましたが、ベランダにもラウの姿はありませんでした。








結局、家の中のどこを探してもラウは見つかりませんでした。
どうしようもないと思ったムウさんは、ちゃんと着替えを終えて玄関の扉を開きました。
ラウの飼い主だと名乗った男の人は、先刻と変わらない場所に変わらない体勢で立っていました。

「あの、申し訳ないんですが、あいつどっか行っちゃったみたいで……」
「え?」

男の人は少しだけ顔をしかめました。
当然の反応でしょう、ラウを引き取りに来たというのに、肝心のラウがいないというのですから。

「どういうことですか」
「っあー……。それがですね、昨日帰ったらいなくなってたんですよ」
「しかし――」

そのあと、男の人はなおも食い下がりましたが、ムウさんにとってはいないものはいないのでどうしようもないのです。

「なんなら、うちの中探してみますか?」

困り果てたムウさんが最後にこんな提示したことで、男の人はまだ訝しげな目でムウさんを見つめていましたが、どうにか納得してくれたようです。

「わかりました。――ご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした」

小さく溜息をつくと、礼儀正しく深々と頭を下げる男の人に、ムウさんも慌ててしまいました。

「いやあの、こっちこそすいませんでした」

へこへこと同じように頭を下げるムウさんに、男の人は少しだけ苦笑したようでした。
それでは、と云って颯爽と身を翻す男の人の背中を思わず見送ってしまいながら、ムウさんはアパートの前に止まっている黒い車に気付きました。
それは、こんな住宅街では滅多にお目にかかることのできない高級な車でした。
車の名前にはそれほど興味がないムウさんですが、それでもその車がとても高いものだということはわかります。

「どうしてこんなとこに……?」

ムウさんの疑問は、このすぐ後に解決することになります。
なんと、ムウさんの家に訪ねてきた男の人が真っ直ぐ運転席に入っていったのです。

「まさか」

ムウさんは思いました。
あんなどこぞのお偉いさんが乗るような車の運転席に入った男の人。
もしかしたら彼は、本当のラウの飼い主ではないのかもしれません。
ラウはどこかの偉い人の飼い猫で、あの男の人は偉い人の部下や秘書のようなものだったのかもしれない、と。
確信めいた想像が、ムウさんの頭に浮かびました。
さらに、ムウさんの貼った少ない貼り紙さえ見つけてここまでやってくるのですから、ラウは相当可愛がられていたはずです。

「じゃあ、どうしてラウは……」

なぜ、おそらくは最高レベルだったであろう生活から離れていたのだろう。
疑問を持たないわけがありません。
首を傾げながら、けれどもういなくなってしまった猫のことを考えても仕方ないと思いながら、ムウさんは部屋の中に戻りました。
ラウのいない部屋。
たった1週間ほどでも、ラウの存在がどれほどこの部屋を占めていたか、ムウさんは今になって知りました。

「こうなってみると、結構寂しいもんだな」

悲しげに笑って、ムウさんは冷蔵庫からミルクのパックを取り出すと半分ほど残っていたものを一気に煽りました。
空になったパックをゴミ箱に放り込み、また寝ようとベッドに向かおうとしたそのときです。
窓の外に、見覚えのある影がありました。

「……え?」

ラウを探していたときに閉めた窓の向こうからこっちを見つめるもの。
真っ白な影。海の色をした深い青。
ほんの数分前まで、どこを探してもいなかったそれ。

「ち、ちょっと待ってろよ」

ムウさんが慌てて窓を開けてやると、白いそれはするりと隙間を抜けて部屋の中に入り、ムウさんを見向きもせずにいつもの場所へと向かいました。
お気に入りの毛布に顔をすり寄せ、身体を丸める様子は本当にいつもと変わらなくて。
どうして同じ光景が目の前にあるのだろう、とムウさんは信じられない思いでいっぱいでした。
けれどそれは、確かにムウさんの前で起こっていることで。

「――お前、本当の飼い主のところに戻らなくていいのか?」

思わず零れた声が届いたのか、ちらりと上がった目線にムウさんはどきりとしますがそれ以上の反応がないのはいつものことで。 どうしようもなくおかしくなって、ムウさんは緩んでしまう頬を引き締めることができませんでした。


「おかえり、ラウ」


1人と1匹は運命的に出会い、こうして共に暮らすことになったのです。