君がいるから


それはいつもと変わらない朝でした。
目覚まし時計より少しだけ早く目覚めたムウさんは、まずカーテンを開いて部屋の中に光を入れるとキッチンに向かいます。
お鍋にミルクを入れて火にかけ、温めるあいだに顔を洗って寝癖も整えてしまいます。
そうして温まったミルクのほとんどをマグカップに、残った少しを浅いお皿に入れると、パンや卵を焼いたり残り物を使ったりして軽い朝食を作ります。

「……うっし、完璧だな」

今日のムウさんの朝食は、トーストしたパンとベーコンにスクランブルエッグ、昨晩たくさん作っておいたサラダと、ホットミルク。
ざっとテーブルに並べてひとつ頷くと、ムウさんはテーブルと反対の方へ身体を向けました。

「ラウ、起きろ。朝だぞ」

ムウさんの足元には、白い塊がひとつ。
丸いクッションを薄い毛布でくるんだものの上で、さらに丸くなっている真っ白のもの。
そう、それはラウでした。
ムウさんの声が聞こえたのか、ラウはぴくりと耳を動かすとゆっくりと頭を上げました。
そして、目の前にいるムウさんを見つめると小さくにゃーと鳴きました。
おそらく起きたくないとでも云っているのでしょうが、ムウさんは気にせずラウの頭をぽんぽんと軽く叩きます。

「ほら、ミルクが冷たくなる前にちゃんと起きろ」

ムウさんがラウにちゃんとエサを与えることができるのは、実は朝のこの時間だけなのです。
昼間はムウさんは仕事でいませんし、夜に家に帰る時間は、大抵は同じですがそれでも少し遅めで、ときどき残業が入ってしまえば帰るのは日付が変わった後になってしまいます。
なので、ムウさんは朝きちんとラウにエサをやると、昼夜の分のエサをもしものためにと多めに置いて家を出るのです。
ラウは温かいミルクが好きなのですが、こういった事情のために昼と夜に飲むミルクはみんな冷たいものなので、温かいミルクは朝またはムウさんの帰宅後しか飲むことができません。
そのため、本当はちょっと嫌でも朝になるとラウはちゃんと起きてくるのです。
ゆっくりとラウが起き上がるのを確認すると、ムウさんはラウをひょいと持ち上げてテーブルの上、2枚のお皿の前に下ろしてやります。
1枚には温めたミルクが、もう1枚には近所のペットショップで勧められて買った仔猫用のエサが入っていました。

「……」

お皿の前でじっとするラウを、ムウさんも思わずじっと見つめてしまいます。
ラウがこの家に来てもうそろそろで1週間経ちますが、ラウはあまりエサを食べません。
ミルクは飲むのですが、どうもエサを食べているところを見かけないのです。
ムウさんがいない間には置いておいたエサを多少は食べているようなのですが、ムウさんが見ている前では未だにちゃんと食べてくれません。
実のところ、ムウさんはそれが残念でならないのです。
なので今日こそは、と思いながら、ムウさんはラウを見つめます。
いつもならすぐにミルクを舐めはじめるラウが、今日は2つのお皿を見つめていました。
どうしたのだろう、とムウさんが思ったそのとき、ラウの頭が動きました。

「あ……」

ラウは、ミルクの方でなくエサの方のお皿に顔を向け、エサをぺろりと舐めました。
食べにくいものではないと確認したのか、何度か繰り返してからきちんと口をつけて食べ始めます。
よかった、とムウさんは安心して小さく息を吐きました。
そしてラウを見て少しだけ笑うと、自分のご飯へと向き直ったのです。


ムウさんが家を出ようとしたそのとき、電話が鳴りました。
急いで電話を取ったムウさんは、驚いた顔をして、そうしてラウの方を振り返りました。








受話器を下ろしたムウさんは、ラウの前でかがむとその頭をそっと撫で、なんともいえない困ったような顔をして慌しく家を出て行きました。


お昼休み、なんとなく職場の食堂ではなく外のレストランへ入ったムウさんは、そこでキラくんに出会いました。
キラくんはまだ16歳ですが軍人です。
どちらかというと肉体労働派なムウさんとは正反対で、軍に関係するコンピュータやプログラムなどを作ったりする仕事に就いています。
まだ新人ですが、プロをも唸らせるその能力は軍内において高く評価されています。
キラくんが受けた研修を通して2人は知り合ったのですが妙に馬があい、いつの間にか仲良くなっていたのです。
元々仕事内容が全く違うために最近は会うことがなかったのですが、今日は偶然にも何気なく足を向けたレストランでばったり再会しました。
軽い世間話をしていた2人でしたが、ふいにキラくんが首を傾げました。

「フラガさん、何かあったんですか?」

流石、若いのに優秀なキラくんです。
フラガさんの様子がいつもと違うとすぐに気付いたキラくんは、控えめですが心配そうにフラがさんの顔を見つめていました。
対するフラガさんは、フォークをサラダに刺したまま手元をじっと見下ろしていました。
フラガさんの頭に、今朝の電話の声が繰り返し響きます。

『迷い猫の貼り紙を拝見したのですが』

迷い猫とは、間違いなくラウのことでしょう。
ラウがムウさんの家にきてすぐ、ムウさんは役所に迷い猫の届けを出し、自分でも何枚か貼り紙を書いたのです。
それは一刻も早くラウの元の飼い主を見つけるため。
そしてムウさんが思ったとおり、飼い主らしき人物から連絡が来たのですが。

「フラガさん?」
「――っ、あぁ、悪い」

はっと我に返り、フラガさんは気を持ち直すように笑みを浮かべますが、キラくんにはそれすらも不自然に映るのでしょう、わずかに眉を寄せたキラくんに、フラガさんは苦笑しました。
勘の鋭いキラくんには誤魔化しは逆効果だと悟ったムウさんは、諦めたような、けれどどこか安堵を含んだ溜息を洩らし、ぽつりぽつりと話しだしました。
今猫が家にいるということ、その猫――ラウと初めて出逢ったときのこと、ラウを連れ帰ってからのこと、そして今朝の電話。

『後日、引き取りに伺います』

事務的な男の声を、ムウさんは忘れることができません。
望んでいたはずのことに、動揺するのはなぜなのか、ムウさんにはわかりませんでした。
黙って話を聞いていたキラくんは、少し考えこんでからゆっくりと言葉を紡ぎました。

「――フラガさんは、その猫と一緒にいたいんですか?」








「一緒に……?」

問われて、フラガさんははっとしました。
どうしたらいいのか、どうすべきなのかは最初から決まっています。
どんな事情があってラウが飼い主の元から離れたのかは知りませんが、元の飼い主がラウを探しているとわかった以上、ラウは元いた場所に戻るべきだということはわかっているのです。
自分がラウと一緒にいたいかそうでないかは関係なく、最初からするべきことは決まっているのです。
決まっている――はずなのに。
ふいに、やわらかなラウの白い毛の感触を思い出し、ムウさんは手をぎゅっと握り締めました。

「……あいつさ」
「え?」

脈絡のない突然の言葉に驚いたキラくんに、ムウさんは苦笑しましたが、そのまま話を続けます。

「あいつさ、綺麗なんだよ。さっきも話したけど、ボロ雑巾みたいに道端に転がってたくせに少し洗っただけで真っ白になってさ。あんなに汚れてたのに、どうしてこんなに真っ白なんだろう、綺麗なままなんだろうってすごく不思議だった」

ムウさんの話を、キラくんは黙って聞いていました。

「それに、あいつは意志も強い。これはあくまで俺の憶測だけど、きっとあいつは自分以外の存在に屈することはない、そう思った。あんなにちっこいのに、強くて真っ直ぐで――でも、どこか儚いような、そんな気がして。……守ってやりたいと、思う」

そうだ、とムウさんは思いました。
本当は、ラウと一緒にいたいかそうでないかなんて考えるまでもないのです。
ただ、ラウのためにか自分のためにか、どちらに重点を置くか結果が全く変わってしまう、それだけのことであって。
だからこそ、ムウさんはこうして悩んでいるのですけれど。

「キラ?」

ふと目を向ければ、キラくんがくすくすと笑っていて、ムウさんは首を傾げました。

「……だってムウさん、まるで恋人の惚気話してるみたいで……」
「はっ?」

自分がどんな顔でラウの話をしていたか、ムウさんは知らないようです。
そのことに気付いたキラくんは、にっこり笑ってムウさんを見上げました。
わけがわからないといった顔をしていたムウさんも、キラくんにつられ困ったように笑いました。