Name それはまだ、自分が今よりもっと無知で。 ふわふわとした幸せの中にいた頃の話。 キラのいたカレッジはヘリオポリス内の数ある施設の中でもかなり規模の大きいものだった。 ヘリオポリスのほとんどの学生が通っているのだから当然かもしれないけれど、建物や敷地の広さも半端ではない。 各地にある学園施設の中でも、キラたちの通う校舎のある場所は特に位置関係が掴みにくく。 どんな客でも一度は迷うと定評の場所だった。 ばさり、と嫌な音がした。 そんな予感はしていたのだけれど。 ……今日は運悪くコンピュータやらファイルやらを不安定に抱えていたから。 道に散らばったプリントを拾おうとキラは腰を屈めたが、両手に荷物があるせいで拾うに拾えない。 仕方なしに脇に荷物を置いて手を伸ばす。――と。 「うわっ」 突然吹きぬけた風に、散っていたプリントが舞い上がる。 白と青のコントラストに見呆ける間もなく慌てて手を伸ばすが、いくらなんでも十数枚の紙を一手に止められるわけがない。 プリントは無残にも、キラの背後へと飛んでいった。 「あーあ」 仕方ないなぁ、と振り返る。 飛んでいった数は、5。 3枚はキラのすぐ後ろにあって。 もう、2枚は。 「――あ」 数メートル先でプリントを手にしている人物がいた。 その人は、足元にあるもう一枚を拾おうとちょうど手を伸ばしかけたところで。 黒いシャツから覗く手は、白くてほっそりとした印象を与える。 繊細な手つきでプリントを拾い上げ、手にした2枚を重ね合わせるまで、キラはなぜかその動作に魅入っていた。 ――男? そんなもの、身体つきを見ればわかるのに。 思わず凝視していた自分に気付いたとき、その青年と目が合った。 目が合う、とは異なるのかもしれない。 ふわりとしたウェーブの髪の青年はサングラスをかけていたから、その表情はわからない。 けれど確かに彼は今こちらを見ているのだと、キラは感じていた。 「あの、すいません!」 慌てて立ち上がろうとするが、手にしたプリントがまた散りそうになって一瞬戸惑う。 急いでプリントをまとめて振り返ると、さっきまで少し後ろにいたはずの青年が目の前にいた。 「大丈夫か?」 「あ……はい、すいません」 最後の2枚を差し出され、俯いたまま受け取る。 耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。恥ずかしくて仕方なかった。 そんなキラの様子に、青年は苦笑したようだった。 「すまないが、副学長の研究室がどこかわかるかい?」 「え?」 「恥ずかしい話なのだが、道に迷ってしまったようでね」 そう云うわりに、青年の口調は楽しげだ。 どこか高圧的な雰囲気を纏ってはいたが、キラには悪い人間には見えなかった。 「えっと、副学長先生のですか?」 呟いて、記憶を探る。 専攻の違いから副学長と接する機会はほとんどないが、確か……。 「あそこに見える白い建物の、4階のつきあたりにあったと思います」 キラの示した方向に視線を走らせ、青年は頷く。 「そうか、ありがとう。助かったよ」 「いえ、こちらこそありがとうございました」 ……みっともないところを見られてしまったけれど。 頭を下げたとき、後ろの方から自分の名を呼ぶ声がした。 友人たちが、一緒に歩いていたはずのキラがいないことにやっと気付いたのだろう。 「それじゃあ、失礼します」 一礼して、キラは青年に背を向けた。 「何してたんだ、キラ?」 追いついたキラに、真っ先に声をかけたのはトールだった。 キラは苦笑して軽く肩をすくめる。 あまり大声で云いたくないできごとではあるのだけれど。 「プリントばらまいちゃって」 「やっぱりなー。だから持ってやるって云ったろ、絶対落とすと思ったんだ」 「ははっ」 「あれ、じゃあ一緒にいた金髪の人は? 綺麗な人だったわよね。すらっとしてて」 ミリアリアが云うのは、先刻の青年のことだろう。 顔なんて見えなかったのに、女の子はよくこういうこと気にするよなぁと思いながらキラは頷く。 「うん、副学長先生の研究室の場所、訊かれたんだ。迷ってたみたいでさ」 「あーそりゃわかんないよなー、ここ。俺だって未だに迷うもん」 「トールは単に方向音痴なだけでしょ」 公認の『彼女』に鋭い指摘を受け、トールはむくれたように反論するが、彼がミリアリアに敵うわけがない。 それは多分、惚れた弱みというやつで。 そんなカップルののろけ話を微笑ましく見守っていた中で、何か考え込んでいたらしいサイが口を開く。 「なぁキラ。副学長って今日、出張じゃなかったか?」 「え、嘘」 「多分だけど。でもそんな掲示があった気がするんだけど」 呟いて、ポケットから小型のコンピュータを取り出す。 休講情報などの、カレッジから発信される学生向けのページを呼び出し――。 「ほら。午前の講義は出張のため休講。本人が戻るのは午後だから、それまで研究室も閉まってるって」 うわ、とキラは思った。 おそらく先刻の青年はキラの示したとおり目的地へ向かうだろう。 ――誰もいない研究室に。 「ごめん僕、さっきの人に知らせてくる」 云うが早いか駆け出すキラに、驚いたような声がかかる。 「おい、キラ!?」 「大丈夫。次、空き時間だから」 気付けばはるか先を走るキラを、残された友人たちは唖然としたまま見送っていた。 「……荷物、持ってってやろうかって云おうとしたのに」 あんな持ちにくい荷物をわざわざ抱えたまま走る必要などないのに。 しかも、その理由がまた。 ――キラらしいというか、なんというか。 「あれがキラだよなぁ」 「ホント、キラよねぇ」 「……確かに」 口々に勝手なことを呟き、友人たちは声を上げて笑った。 「あ、あの!」 キラがそこにたどり着いたとき、青年はちょうど建物の扉の前に立ったところだった。 音もなく開く扉に一歩踏み入りながら、キラの声にゆっくりと振り返る。 「……何か?」 先刻出会った少年との再会に驚くこともなく、彼は笑みを浮かべてみせた。 疲れはしていないものの、流石に少し息が上がっていたキラは一度深く息を吐いてから青年を見上げた。 「副学長先生、実は今出張中で……戻られるのが、午後になってからだって」 だから今研究室に行っても誰もいないのだ、と告げる。 「そうか……」 「すいません、僕、気付かなくて」 どうしたものかと考え込んでいた青年が、ふいに顔を上げた。 「君はわざわざそれを云いに?」 「え? はい、そうですけど」 きょとんと見上げる姿を、今度は青年は驚いたように見返した。 そのためだけにここまで走ってきたのか、この少年は。 「君はここの学生だろう? 授業はいいのか?」 「ええ、次は空き時間なので」 青年は、生真面目に返事をするキラを凝視する。 面白い子だ、と思う。 お人好しというか、素直すぎるというか。 普段周囲にいないタイプだから、なおさら。 「……この近くに、時間を潰せるような場所はあるかな?」 「この裏に、カフェテリアがありますけど」 「なら、案内がてら少し付き合ってもらおうか」 「え?」 突然の申し出にキラはどきりと青年を見返した。 「わざわざここまで駆けてくれたのだからな、お礼がしたい」 いいだろう? と微笑まれる。 疑問系でありながらそれは既に決定事項になっているようで。 そのあたりがひっかかりもしたがキラはそのまま頷いた。 どうせ最初から、断る気なんてなかったのだから。 |