子供がいた。
ひとり、子供がいた。
子供には名がなかった。
その日、あの人と初めて外に出た。
きっちりとした服を着て、あの人と一緒に大きな車に乗りこんだ。
車の中であの人は云った。
「会場に入ったら、私のことは『お父さん』と呼びなさい。そして教えた以上のことは何も云うな」
ぼくは「はい」と答えた。
男はその場を支配していた。
客の誰もが男に頭を下げ、男の言動に注目していた。
常とは異なり、男の連れた子供にもまた、人の目を引く要因はあった。
小さいながら、男とよく似た顔立ちの子供を見て、客の一人が男に尋ねた。
『息子さんですか?』
男は笑って答えた。
そして男に促され、子供は緊張した面持ちで頭を下げた。
「初めまして、ラウ・ラ・フラガです。よろしくお願いします」
子供は客に囲まれた。
『しっかりしている』と、『まるであなたの子供の頃のようだ』と、客は口々に男に云った。
男は満足げに頷いていた。
子供は男を「おとうさん」と呼んだ。
男は子供の頭に手をやって笑っていた。
あの人が笑った。
ぼくを見て笑った。
なんだかどきどきして、ぼくは会場をでてからあの人を呼んだ。
おとうさん、と。
けど、あの人は笑わなかった。
あの人はいつもと同じようにぼくを見ていた。
「私はお前の父ではない」
あの人は云った。
「いいか、お前は私であって他の誰でもない。便宜上『ラウ』という名を使ってはいるが、お前はもう一人の私、『アル・ダ・フラガ』でしかないのだ」
どうして、とは訊けなかった。
またあの冷たい目で見られたくなかったから。
けれど、と思った。
あの人とぼくのことを自分だというけれど、あの人とぼくがこうやって一緒にいても、ぼくとあの人だと考えてることだってぜんぶ違うはずなのに。
それでもぼくはぼくではないと、あの人は云う。
でもぼくは、それを『違う』ことだと知っていて。
だからよくわからない。
誰かに訊きたいのに、誰にも訊けなくて。
――ねぇ、ぼくは誰?
子供は問う。
自らの名を。
いつまでも。
いつまでも。
小さなあの子。
ひとりきりのあの子。
誰か、あの子を救ってください。
続くの?→『
答え
』