「……あたたかいな、お前は」

そんな呟きが耳に入り、ランディくんははっと我に返りました。
オスカー先輩の背中は先刻と全く変わっていませんでした。
ただ、手が動いている様子なので、きっとセイランを撫でているのでしょう。
オスカー先輩が触れているであろうセイランの柔らかな毛皮を思い出し、ランディくんはテーブルの上で手をぎゅっと握り締めました。

「ランディ」

ふいに振り返ったオスカー先輩は、腕にセイランを抱いたまま真っ直ぐにランディくんを見つめます。

「今まで、迷惑かけて悪かったな」

オスカー先輩の真紅の髪、射るようなアイスブルーの瞳、そしてセイランの深い蒼は、絶妙なバランスでそこにありました。
他に何者の存在も許さない、それは既に完成した風景に見えて、ランディくんは泣きたくなりました。
――こんなに、近くにいるのに。
どうして自分が『そこ』にいないのだろうと、悔しいような泣きたいような想いが頭の中をぐるぐると回っています。

「……ランディ?」

オリヴィエ先輩の手が、きつく握ったランディくんの手に重なります。
驚いてオリヴィエ先輩を見て、初めてランディくんはオリヴィエ先輩の心配そうな目に気づきました。
そうしてやっと、わかったのです。
オリヴィエ先輩が、玄関で云った言葉の意味を。

『アンタ、大丈夫?』

それはきっと、こうなることを危惧して云ったことだったのでしょう。
ランディくんが気づいていなかった、いえ、気づかないフリをしていたことを、オリヴィエ先輩は見抜いていたのかもしれません。

『オレに止める権利なんて、ない』

わかっていた結末を、今になって否定したくなるなんてどうかしている、とランディくんは思いました。
セイランはオスカー先輩の猫で、ランディくんのものではありません。
けれどそれでも、想ってしまうのはどうしようもないことなのかもしれません。

「オスカー先輩、オレ……」

真っ直ぐにオスカー先輩を見据え、ランディくんはゆっくりと口を開きました。
ランディくんの頭の中には今、ひとつの想いしかありません。
これでもうサヨナラなんて、嫌だ――。








「オレ、これからもセイランさんと一緒にいたいんです」

ランディくんの突然の言葉に、オスカー先輩は少し驚いたようでしたが、次の瞬間にはすっと眼を細めてランディくんを見返しました。

「……俺はこいつを預かってくれと頼みはしたが、貰ってくれと云った覚えはないぞ」

それは、ランディくんが初めて見るオスカー先輩の顔でした。
怒った顔なら見たことがあります。
他人を軽蔑するような、見下すような顔も、自分に対してではないけれど見たことがあります。
けれど、この顔は。この表情は。
怒っているというものとは少し違う、冷たい目にランディくんはぞくりとしました。
これが、本気のオスカー先輩なのでしょうか。

「――っ、わかってます」

けれどランディくんは、怯みそうになる心を抑え、睨むようにオスカー先輩を見つめました。

「わかっています。これはオレのワガママだって。こうなることは最初からわかっていたのに、約束を違えているのはオレの方だ」

ランディくんの隣で、オリヴィエ先輩がわずかに息を呑んだ気配を感じましたが、ランディくんはオスカー先輩を、そしてセイランを見ていました。

「それでも……それでもオレは、セイランさんを手放したくない。今まで暮らしてきて、今になって、やっとちゃんとわかりました、自分の気持ちが」

ずっと考えていたくせに、見ようとしなかった見たくなかった気持ちに、ランディくんはやっと向き合うことができました。
嘘のない気持ちは、なんの躊躇いもなく口から零れていきます。

「オレは、セイランさんと一緒にいたいんです」

オスカー先輩の目の冷たさは変わりません。
けれどランディくんは、引くつもりはありませんでした。
例え無理だとしても、セイランへの気持ちで負けることはないと、ランディくんは知っていたのです。

そして、どれほどの時間が経ったのでしょうか。

「ま、別にそれで構わないけどな」
「…………は?」

それまでと一変して、いつもの飄々とした表情となったオスカー先輩に、ランディくんはあんぐりと口を開けてしまいました。








「俺な、向こうの大学に留学することにしたんだ」

いつもと変わらない声、いつもと変わらない口調、いつもと変わらないオスカー先輩がそこにはいました。

「実はな、向こうで知り合った教授が、是非留学してこいとうるさくてな」

そう云いながらも、オスカー先輩は嬉しそうでした。
今回の帰国は、両親の説得と留学の手続きのためのものだったと、オスカー先輩は云います。
急な展開についていけないランディくんは、頭の中で状況を整理するのに精一杯でしたが、やっと言葉をしぼりだしました。

「そう、だったんですか……」
「今回は数ヶ月だが、今度は年単位だ。今のところは1年の予定だが、もしかしたらもっと長くいるかもしれない」

オスカー先輩は、腕の中のセイランに視線を落しました。

「お前にこれ以上迷惑をかけられないから、新しい飼い主をどう探そうかと悩んでいたんだが、お前がそう云ってくれて助かったよ」
「はあ……」

にっこりと笑うオスカー先輩に、呆けたような返事しかできないランディくん。
――つまりは、これからもセイランと一緒にいていいということだろうか?
やっとたどり着いた結論は、ランディくんの望んだ通りのものではありましたが、あまりにあっさりとまとまってしまい、ランディくんは拍子抜けしてしまいます。
先程までとは異なる様子で呆然としているランディくんの肩に、オリヴィエ先輩がにやにやとわらいながら手を乗せてきます。

「良かったじゃないか、ランディ?」
「…………あの、もしかしてオリヴィエ先輩」
「オスカー先輩の留学のこと、知ってたんですか?」
「ああ、まぁね〜」

ひらひらと悪びれずに手を振るオリヴィエ先輩に、ランディくんは怒ったような声で詰め寄りました。

「だったらどうして教えてくれなかったんですか!オレ、ずっと悩んで……!」
「悩んで、そうして自分の本当の気持ちがわかったんだろ?」
「え……」

オリヴィエ先輩の思わぬ真剣な瞳に、ランディくんは胸を突かれました。









「例え結果は同じでも、望むなら心の底から望んだ方が断然いいに決まってるじゃない」
「オリヴィエ先輩……」
「どうせこれからも同じようなことで悩むんだったら、今ここで決意しちゃった方が自分にいいと思わない?」

そうだ、とランディくんは思いました。
もし、オスカー先輩の留学の話を最初から聞いていたのなら、今日のような葛藤がないままにセイランを預かることになっていたはずです。
その場合、きっとランディくんはまた同じように悩むのでしょう。
再びの別れが訪れたとき、わかりきったことを繰り返し悩むのでしょう。
オリヴィエ先輩が本当に心配していたのは、もしかしたらこの可能性だったのかもしれない、とランディくんは思いました。

「嘘をつくな。どうせお前のことだ、面白いから黙ってただけだろう」
「あは。バレた?」

オスカー先輩の鋭いツッコミも、オリヴィエ先輩は笑って流します。

「いいじゃない。これにて一件落着、結果オーライってね」

そう云ってウインクするオリヴィエ先輩と怒ったような呆れたような顔で笑うオスカー先輩に、つられるようにランディくんも笑いました。
オスカー先輩の腕の中から、セイランが顔を上げてランディくんを見つめます。
蒼い瞳が、ただランディくんだけを見ていました。

「――」

ランディくんは手を差し出しました。
オスカー先輩の腕の中にいる、セイランの目の前に。
気づいたオスカー先輩もまた、少しだけ前に手を出します。
セイランは一度オスカー先輩を見上げ、またランディくんに視線を戻しました。

そうして。

するり、となんでもないことのように腕の中に収まった蒼は、初めて会ったときより少し大きくなっているものの、その瞳の強さは変わらなくて。

「セイランさん」

ぴくり、と耳を動かしてセイランがランディくんを見上げました。
そんな些細なことが、何よりも嬉しいのだと知ったのはセイランと暮らし始めてからです。
子どものように離れたくないと一心に願った、初めての特別な『誰か』。
それがこのセイランであって本当によかったと、ランディくんは心から思いました。

「こらからも、よろしく。――セイラン」


今はただ、このぬくもりを信じて。