君といつまで ランディくんの家には、月に数回、オリヴィエ先輩から電話がかかってきます。 ランディくんとセイランのことを心配したオリヴィエ先輩が、様子をみるために電話をしてくれるのです。 セイランとの生活にもすっかり慣れ、ご近所さんとのお付き合いも上手くいっているランディくんには悩みといった悩みはなく、いつもその電話はお互いの近況報告と世間話で終わっていたのですけれど。 「もしもし。――はい。お久し振りです、オリヴィエ先輩」 鳴り響く電話にセイランはふと顔を上げましたが、それがいつもの定期報告だとわかると元のように顔を伏せてしまいます。 そんなセイランを横目に見ながら、ランディくんはいつもと変わらぬ様子で電話をしていたのですけれど。 「え? ……あ、はい。そう、ですか」 突然声のトーンが下がったランディくんに気づいたのか、セイランは顔を上げずにランディくんの方を見つめました。 半ば固まってしまったランディくんは、セイランのそんな視線には気づいていません。 「わかりました。はい。……失礼します」 受話器を置いたランディくんの表情は、いつもとは違い少しだけ沈んでいるようでした。 しばらくの間、呆然と置いたままの受話器を見つめていましたが、一度深く息を吐きだし呼吸を整えてから、部屋の隅で丸くなっていたセイランに向き直りました。 セイランの傍らにしゃがみこんで、右手を差し出します。 右手とランディくんとを見比べたセイランは、少し迷ったようでしたが大人しくランディくんの手に前足を乗せました。 ゆっくりとセイランを持ち上げ、胸に抱くと、ランディくんはそのままぺたんと床に座りこんでしまいます。 「セイランさん、オレ、どうしたらいいですか……?」 セイランを抱きしめ、ランディくんはそのまま頭を抱えそうな勢いでうなだれていました。 頭の中で繰り返されるのは、先刻の電話で聞いたオリヴィエ先輩の声ばかり。 『オスカーが近々こっちに帰ってくるって』 『アンタたちのことも、アイツなりにずっと心配してたみたいだよ』 オスカー先輩が帰ってくる。 それはすなわち、セイランとの別れを意味していて。 けれど元々、セイランはオスカー先輩の猫なのです。 ランディくんは、外国に行ってしまったオスカー先輩の代わりにセイランを預かり育てていただけであって、セイランはランディくんの正式な飼い猫ではないのです。 「わかってたよ、そんなこと……」 いつか別れのときがくると、そんなことは最初から承知でした。 けれど、一番初めに覚悟したはずのそれがいざ目の前にくると、嫌で嫌でたまらないと思ってしまうのはなぜなのでしょう。 オスカー先輩の帰国は、純粋に嬉しいと思うのに。 オスカー先輩に会って、向こうでの話をたくさん聞きたいとも思うのに。 なのにどうして、再会の喜びよりも別れのつらさがより大きいと感じてしまうのでしょうか。 いつの間に、セイランの存在はランディくんにとってこれほど大きくなってしまっていたのでしょうか。 オリヴィエ先輩の電話があってから数日後のことでした。 「や、ランディ」 「……急にどうしたんですか?」 玄関の前で小さく笑って手を上げるオリヴィエ先輩に、ランディくんはただ驚いていました。 遊びにくるときは必ず連絡をくれるオリヴィエ先輩がなんの連絡もなしに訪ねてきたのです、驚かないわけがありません。 「いや……ちょっと様子見にね、寄ってみたんだけど」 いつもと違う歯切れの悪い物云いに、ランディくんはますます首を傾げます。 「あ……あのさ、ランディ」 「はい」 「実は、この下でばったり会っちゃってさ」 何と、と問うまでもありませんでした。 オリヴィエ先輩の横から現われた懐かしい顔。 燃えるような赤い髪、凍るように澄んだ青い瞳、男でも見惚れてしまうほどの整った顔立ち。 「オスカー……先、輩」 「よう、久し振りだな、ランディ」 「先輩……」 目を見開いたきり、ランディくんは口を開け放していました。 その呆けた顔に、オスカー先輩は肩をすくめてからかうような笑みを浮かべます。 「おいおい、久々に会った先輩にお久し振りの一言もないのか?」 「……あ、いえはいっ、お久し振りですっ!」 反射的に気をつけをするランディくんに、オスカー先輩は声をあげて笑いました。 「ああ、お前も変わってないようで嬉しいぜ」 やっぱりオスカー先輩だ、とランディくんは思います。 女ったらしだけど、いつも自信たっぷりで強い、ランディくんの尊敬する人。 外国をまわったことにより、さらに自信をつけたように見えるオスカー先輩は、やっぱりオスカー先輩でした。 「あ、お2人とも上がってください」 せっかく訪ねてくれた先輩たちを立たせっぱなしだということに気づいたランディくんは、お茶でもどうかと二人を部屋に促します。 勧められ、まずはオスカー先輩が部屋に上がります。 続いて玄関に入ったオリヴィエ先輩は、鍵をかけるランディくんにだけ聴こえる声で云いました。 「アンタ、大丈夫?」 「え……?」 「いやうん、平気ならいいんだ。平気なら」 ごまかすように手を振り、オリヴィエ先輩はオスカー先輩に続いて部屋に上がりました。 キッチンでお茶や軽いお菓子を用意して、部屋に入ったランディくんがまず見たものは、オスカー先輩の背中でした。 窓の方に向かって膝をついている広い背中。 ――その向こうに、いるものは。 「お前と会うのも久し振りだな……」 テーブルにグラスを置きかけた手がぴくりと揺れました。 その様子を間近で見ていたオリヴィエ先輩が心配そうに眉をひそめたのを、ランディくんは知りません。 ランディくんはただ、オスカー先輩の背中を見ていました。 そして、そのオスカー先輩が見ている存在。 今この部屋にいるのは、ランディくんとオスカー先輩とオリヴィエ先輩と、そして――。 「セイラン」 空や海の色よりもっと深く鮮やかな蒼を腕に抱き、オスカー先輩が振り返りました。 ランディくんは息を呑みました。 ランディくんにとってそれは、セイランとの決別を告げる瞬間だったのです。 |