「あれ? 何やってんだ、お前たち。来てたなら声かけてくれりゃ良かったのに」

家の前で話していた声が聞こえていたのでしょうか、ランディくんが去ってすぐ、ムウさんが玄関から顔を覗かせました。

「すいません。さっきまで、ランディさんって方と話してたんです」
「ああ、ランディか。なるほどな。――ま、立ち話もなんだから入れよ」

ムウさんの後についてキラくんとアスランくんは部屋に上がりました。
玄関から中の様子をまじまじと眺めるキラくんに、ムウさんは不思議そうな顔をします。

「どうした、坊主?」
「いえ……案外綺麗なんだなぁって」
「お前、なんか変なこと期待してたんじゃないだろうな?」
「き、期待なんてしてませんよ! ただ、男の人の1人暮らしってどうなのかなって思ってただけで……っ」
「ま、わからないではないがな。あいにくと俺は綺麗好きでな、ほんの少し整理するだけで人が招けるほどにはちゃんとしてるぜ?」

茶化しあうような会話をしながら部屋に足を踏み入れたキラくんが、真っ先に見たものは白く小さなものでした。
突然の来訪者に驚いた様子もなく、じっとこちらを見つめてくる青い瞳。
真っ直ぐなそれに思わず言葉を途切れさせてしまったキラくんに、ムウさんは満足げに微笑みました。

「ムウさん、この子が……」
「ああ、ラウだ。可愛いだろ?」

すると、それまで黙っていたアスランくんが、急に一歩踏み出しました。
ラウの姿をみとめ、足を止めるとラウから視線を外さないままぽつりと呟きました。

「本当に、『ラウ』、なんですか……?」

予想外の言葉に、ムウさんは眉をひそめながらも近くの棚に置いてあったから赤い首輪を取り上げました。

「ああ、これがついてたからな。わかりにくいけど、読めるだろ? 『RAWW』って」

ラウの名が彫ってあるプレートを見せながらアスランくんに首輪を渡すと、アスランくんはそれをじっと見つめてからまたラウを見ました。

「本当だ……本当に……」

アスランくんは胸元で首輪をぎゅっと握りしめました。
相変わらず静かなままのラウの尻尾がぱたりと揺れました。

「ラウ――やっと会えた」








「やっと……?」

思わぬ言葉にムウさんが顔をしかめると、アスランくんは小さく頷きました。
そしてはっきりと云います。

「ラウは、父の猫です」
「――っ!」
「ラウが『ラウ』であるというのなら、間違いありません」

ラウは父の――パトリック・ザラの猫です。
確かめるように呟き、アスランくんはラウの前で膝をつきました。
覗きこむように顔を傾け、手を差し伸べるとラウは目の前の手に少しだけ顔をすり寄せました。

「お前、まさか――」

戸惑うムウさんの声が聞こえているのかいないのか、ラウの首元を撫でながらアスランくんはぽつりと零しました。

「まさかこんな日が来るなんて……」
「アスラン?」

心配したようなキラくんの声に、アスランくんは少し振り返って笑ってみせました。
そして手の中にラウのぬくもりを感じたまま、ムウさんを見つめます。

「俺の母は、数年前に死にました」
「……え?」
「父は以前から自分にも他人にも厳しい人で、そんな父が唯一気の許せる場所は、母の前だけでした」

幼いある日のこと、小さなアスランくんは見たのです。
いつでも厳しかった父が、母と2人きりでいるときはいつもより少しだけ表情が穏やかで、見たことのない柔らかな笑みすら浮かべていたことを。
それは、物心ついてからずっと厳格な父の姿しか見たことのないアスランくんにとってはとても衝撃的なことでした。

「母が死んでも、父は何も変わりませんでした。――いえ、変わっていないように見えました」

迅速に的確に葬儀と墓の手配をする父は、それがまるで仕事のひとつと変わらぬものであるかのように見えたのでしょう。
最愛の妻を失ったというのにどういう神経をしている、といった類の心無い陰口を叩くものは少なからずいたのです。

「けれど、俺には父が以前にも増して張り詰めていたように見えたんです。だから、少しでも気休めになればと、ペットを飼うことを勧めたんです」

仕事と関わりのない子供の進言などに耳を貸すことのなかった人間があっさりそれを受け入れ実行していたところをみると、やはり本人にも多少の自覚はあったのでしょう。
数日後、父の秘書が猫を連れてザラ邸を訪れたときは、アスランくんも大層驚いたものです。

「……父は、飼い始めた猫をとても可愛がっていました。母に対するのと同じように優しく触れていて――俺にすら、触れることを許さないほどに」
「その猫が、ラウ?」

キラくんの疑問に、アスランくんは首を横に振りました。

「いや……その猫は死んだよ、1ヶ月前。そして、次に父が選んだ猫が、このラウだったんです」








「……それで?」

抑えるようなムウさんの声に、アスランくんはゆっくりと顔を上げました。

「その大切な猫を、父親に代わって取り戻しにきたって云うのか?」
「フラガさん……」
「確かに俺は、元の飼い主にこいつを返さなかったさ。けどな、それでも俺は、俺たちは――!」

「違いますよ」

きっぱりと云いきったアスランくんの言葉に、ムウさんは目を丸くしました。

「違います、そんなことじゃない」
「じゃあ、どういう……」
「俺、ラウに触れるのは今日が初めてなんです」
「は?」

突然変わった話題にムウさんは思わず顔をしかめました。
アスランくんはラウの白い毛に指を絡ませるように、愛おしそうにラウを撫でていました。

「前の子には何度か触れることができたんですが、どうもラウは本当に父のお気に入りだったらしく……。世話は大抵父の秘書がやっていたようで、俺はごくたまに、父の部屋の扉越しや庭から父の部屋を見たときに、かろうじて見かけることがあるくらいだったんです」

ラウを初めて見たときのことを、アスランくんは未だにはっきりと覚えています。
真っ白な小さなものでしかないのに、なぜかこちらを惹きつけてやまず。
見えなくなる瞬間に現れた青い瞳はただ真っ直ぐで、これが本当に仔猫なのだろうかと思わずにはいられませんでした。

「ずっと、ラウに触れてみたかった。けれど触れることもままならないうちに、ラウは家から姿を消していて……」

ラウが消えたという話を聞いたあと、少しだけ沈んでいるような父の姿を目にしたのはまだ記憶に新しいことです。
けれど、とアスランくんは思います。

「――それで思ったんです。父はもう、解放されなければならない、と」

母のことを忘れろなどと、そんなことはアスランくんには云えません。
けれど、いつまでも悲しみに浸っていては何の解決にもならない、そんな気がするのです。
くるりとラウの頭を撫で、何気なく手を差し出すとラウの前足が手のひらに乗りました。
そのままひょいっと持ち上げると、いとも簡単にラウはアスランくんの腕の中に収まっていました。
その様子にムウさんは少しだけかちんときましたが、アスランくんのなんとも嬉しそうな様子に何もいえなくなってしまいました。

「俺の勝手な考えですが、こうなってよかったんだと思います。ラウもなんだか、うちにいた頃よりもずっと生き生きしてるようだし」

腕の中のラウがふいに顔を上げてアスランくんを見上げます。
アスランくんが頭と喉とを撫でてやると、ラウは気持ち良さそうに目を閉じました。

「ラウを、お願いします」

そうしてアスランくんはムウさんを見つめると、腕の中のラウをムウさんの腕に滑りこませました。
こちらに来たラウを落さないよう慌てて体勢を整えるムウさんに、アスランくんはくすりと笑いました。

「もうひとつ、頼みたいことがあるんですが」
「ん?」

ひょっこりと横から顔を覗かせてたキラくんが珍しげにラウに触れており、ムウさんは腕の中で大人しく撫でられているラウを、アスランくんは彼らのそんな様子を見つめていました。

「――また、ラウに会いに来てもいいですか?」

ふわり、とラウの尻尾が揺れました。
思いがけない、けれどある意味予想通りの言葉に、ムウさんは腕の中のぬくもりを抱きしめたまま微笑みました。

「もちろん」


これは、ラウがムウさんの家に来てからしばらくたったのちの、あるあたたかな日のお話――。