ヒューズさんの言葉の意味がわからず、ハボックさんはしばらく呆然としていました。 「久し振り……って?」 やっと口から出た言葉はありきたりで、けれどそのときのハボックさんの思いを表す言葉を、ハボックさんはこれ以上知りませんでした。 そんなハボックさんに、少しだけ悲しげにヒューズさんは笑い、ロイの頭をまたくるりと撫でました。 「黙ってて悪かったな。もしやとは思っていたが確信が持てなかった」 「……大佐が、中佐の?」 発したものが単語だけであっても、意味はきちんと伝わったのでしょう、ヒューズさんはゆっくりと頷きました。 「そうだ。――俺が、捨てた」 ハボックさんは、なんだかわけがわからなくなってきました。 ヒューズさんとロイは、こうして見てもとても仲が良さそうで。 あのロイがこれほどまでに懐いて、ヒューズさんもまた優しい目でロイを見つめているというのに、なぜ捨てるようなことになってしまったのでしょう。 ぐるぐると考えこんでしまうハボックさんに、ヒューズさんは苦笑しました。 「捨てたかったわけじゃないさ。……ただ、な。ちょっと事情があって、新しい飼い主を見つける時間すらなかったんだ」 だから、捨てた。 「エリシアもグレイシアもそりゃあ可愛がっていたし、こいつが生まれたときから一緒だからな、手放したくはなかったさ。だけど、まあ……大人の事情ってやつだからな」 かつてのロイと一緒に自慢の愛娘と愛妻を思い浮かべているのでしょうか、噛みしめるように淡々とヒューズさんは語りました。 「だから……また会えて、良かったよ」 ヒューズさんを見上げて、ロイは同意するようにみゃあと鳴きました。 ロイの元々の飼い主は、ヒューズさんでした。 最初は本当に驚いたものの、改めてこの1人と1匹を見ていると、なんだかハボックさんは妙に納得してしまいます。 ヒューズさんはロイの扱いに手馴れているように見えますし、ロイがこれほどまでに素直に嬉しそうな姿を見るのは初めてです。 全てがあるべき場所に戻ったような、そんな感じがしていました。 けれどふと、ハボックさんはひとつ疑問を持ちました。 「あの」 「ん?」 ためらいがちに口を開いたハボックさんに、けれどヒューズさんはいつもと変わらない調子で返事をします。 「中佐の家とここってかなり距離ありますよね? わざわざこっちまで来たんスか?」 「……そうだな、あんまり近所に捨てるのも気が引けたのと、……あとは、そうしないとエリシアを納得させられなかったからな」 『ロイはな、遠いところへ行っちゃったんだ』 ヒューズさんがそう云って愛娘を必死で説得する様が、ハボックさんの頭にありありと浮かびました。 「だけどやっぱり気になってな。エリシアがぐずったのもあって、2日後に見にきたんだが、もうそこにこいつはいなかった。……だからエリシアにはこう云ったよ。『ロイは、すごくいい人にもらわれていったんだ。元気にしてるから、心配しなくていい』ってな」 ロイの頭を撫でながら、ヒューズさんはハボックさんを見上げました。 「お前さんが拾ってくれて、よかったよ」 その後、ヒューズさんから積極的にロイの話をすることはありませんでした。 けれどロイは始終ヒューズさんの傍にいて、ヒューズさんもよくロイを撫でて、ハボックさんがロイの話をすれば楽しそうに笑っていました。 職場の話や最近の出来事、果ては昨日の夕食のことにまで話が転がり、めいっぱい買いこんだお酒がなくなった頃、ヒューズさんは小さく肩をすくめました。 「んじゃあ俺、そろそろ帰るわ」 「はい。……って、うわっ、もうこんな時間じゃないですか。電車とか大丈夫っスか?」 「……あんまり大丈夫じゃねぇな。というかマトモに帰れるかどうかの方が怪しい。つーわけで、悪い少尉、タクシー呼んでもらえるか?」 「っス」 流石はヒューズさん、酔っていても自分の身体のことはしっかりと把握しているようです。 同じように酔っているハボックさんは、よろよろと身体を動かし電話の子機を取りあげました。 電話の乗っている棚の中から電話帳を探しだし、タクシー会社の番号を見つけ、ボタンを押していきます。 ふと横目にヒューズさんを見ると、ヒューズさんはロイに顔を近づけて何事か呟いていたようでした。 受話器の向こうで、妙に元気のいい男性がタクシー会社の名を告げてきます。 「あ、タクシーを1台お願いしたいんですけど」 タクシーは10分ほどで着くと云われ、それに合わせてヒューズさんは帰る準備をしました。 ハボックさんは、ロイを腕に抱いてアパートの下までお見送りをします。 タクシーがアパートの前に止まり、扉を開いて乗客を待っていました。 「少尉、今日は楽しかった。ありがとうな」 「はい、こちらこそありがとうございました」 ロイはずっと、ヒューズさんを見つめていました。 それに気づいたのか、ヒューズさんはロイの頭を大きな手のひらでゆっくりと撫でます。 「――それじゃあ、また」 そう云って、ヒューズさんはタクシーに乗りこみました。 行き先を告げ、座席に腰を落ち着けたヒューズさんがハボックさんの方を見、少し笑ったところで車は発進します。 思わず頭を下げ、タクシーを見送るハボックさんの腕からロイがするりと抜けだし地面に降り立ちました。 「……大佐?」 みゃあ、とロイが鳴きました。 みゃあみゃあ、と続けて鳴きました。 「大佐……」 もう見えないヒューズさんの乗ったタクシーを追うように。 行ってしまったハボックさんを呼ぶように、ただただ鳴き続けるロイを見てハボックさんは思いました。 彼はあのときも、こんな風にあの人を呼び続けたのだろうか、と。 決して振り返ることがないとわかっているはずなのに。 それでも、鳴かずにいられないほどに、ロイはヒューズさんが好きなのでしょう。 「……大佐」 ロイの横に回ったハボックさんは、その場にすとんとしゃがみこみました。 「大佐」 顔を覗きこむようにして呼びかけると、今度はロイはこちらを振り返ります。 真っ直ぐな瞳をそらされないように、ハボックさんは慎重に口を開きました。 「今度一緒に中佐ん家に行きましょうよ。グレイシアさんとエリシアちゃんに会いに」 ロイは、ハボックさんを見ていました。 「だってあんたは嫌われたわけじゃない。口実さえあれば、いつだって会えるんだから」 『ごめんな、ロイ』 ハボックさんが電話をしているとき、ヒューズさんがロイに云った言葉がまだハボックさんの耳にはしっかりと残っています。 ヒューズさんはロイを捨てるのに相当の決心が要ったのだと、ハボックさんがすぐに気づいてしまうほどに、あの呟きはヒューズさんの気持ちそのものだったのでしょう。 それに、優しいグレイシアさんが、エリシアちゃんが、望んでロイを捨てることに同意したわけがないのです。 きっとまだ、会いたいと思っている、とハボックさんには確信めいた思いがありました。 「俺が、ちゃんと連れて行ってあげますから」 例え一緒にいることができなくても、互いに想っているのなら会うことくらいは可能なはずです。 大丈夫だ、とハボックさんは思っています。 彼らはきっと、こぼれんばかりの笑顔でハボックさんとロイを迎えてくれるはずです。 「ねぇ大佐」 大人しくハボックさんを見上げたままのロイの瞳は、いつもと変わらない真っ黒な強い光をもっていて。 「だから、帰りましょ?」 ハボックさんが差し伸ばした手を、ロイはじっと見つめました。 数瞬後、するりと手に収まったあたたかな黒に、ハボックさんは目を細めます。 手の中の黒を抱き上げ、ハボックさんは自分たちの家へと足を向けました。 1人と1匹の生活は、ここからまた新たに始まるのです――。 |