さよなら、大好きな人。 それは、ハボックさんが珍しく定刻に仕事を終えた日のこと。 仕事帰りの会社員が岐路へと急ぐ中で、久し振りに少しだけ寄り道をして帰ろうかとぶらぶら歩いていたハボックさんの肩を、誰かが叩きました。 「よっ」 「え? ……って、あぁっ!」 そこにいたのは、ヒゲ面で眼鏡の、服装がどこぞのチンピラのようなちょっと怪しげな男の人でした。 けれど、ハボックさんはその人の顔に覚えがありました。 「ヒューズ中佐!」 「おう、久し振りだな、少尉」 そうです。なんとその人は、ハボックさんと同じく軍人だったのです。 しかも地位は中佐。 そういえば大佐よりひとつ下の地位になるんだな、などと頭の片隅で思いながらも、よく知る人の久々の笑顔につられてハボックさんも笑みを浮かべました。 「どうしてこんなところに?」 「ああ、ちょっと視察でな。ついでにお前さんの顔も見られたらとは思っていたが、まさかこんなところで会えるとはな」 ハボックさんは元々は東方に配属されています。 現在この地方に来ているのは、この地で一年ほどの研修を受けるようにと命令を受けたからなのです。 ヒューズさんは東方ではなく中央勤務なのですが、以前から何かと交流があったためかハボックさんはヒューズさんにだいぶ気に入られているようで。 配属先が全く違うのに、ハボックさんがこちらに出発するときわざわざ見送りに来てくれたことをハボックさんは思い出し、改めて懐かしさがこみあげてきます。 「……それよりハボック少尉、聞いたぜ?」 「何をですか」 悪戯っぽく細められたヒューズ中佐の目に、ハボックさんは思わずなにが来るかと構えてしまいました。 「美人と同棲してるって?」 「……はぁっ!? なんスかそれ」 「こっちじゃもっぱらの噂だぜ? 『ハボック少尉が黒髪の美人と同棲してる』って。あと、相変わらず尻に敷かれてるってのもな」 とんでもない台詞に、ハボックさんは怒っていいのかどうなのか本気で悩んでしまいました。 まさか本当に黒髪の美人と自分が同居していると思われているのでしょうか。 黒というからにはそれはおそらくロイのことなのでしょうが、なぜ猫と自分が「同棲」することになるのだろう、とも考え、ハボックさんは頭を抱えそうになってしまいました。 「……あの、同棲も何も、相手は猫ですよ?」 このとんでもない勘違いをどう正そうかと思いながらも、とりあえず直球でハボックさんは勝負してみます。 けれど、やはりハボックさんよりヒューズさんの方が一枚上手で。 「んなこた知ってるさ」 「はい?」 「だから云ったろ、噂だってさ。あの少尉が黒猫飼ってるらしいぞー、とな」 あっさりと云い放つヒューズさんに、ハボックさんはがっくりと肩を落します。 そんなことだろうと思えばいいものを、なぜあんな慌てさせてくれるような言い方ができるんだろうこの人……と、ある種の尊敬すら抱いてしまうのがこのヒューズさんなのです。 「ま、こんなところで噂話もなんだ、どっかで一杯やってかないか?」 「いいっスね」 頷いて、けれどハボックさんは「あっ」と思いました。 家にはロイがいるのです。 いつも仕事で多少遅くなっても平気ではありましたが、気心知れた人とこのまま飲みに行ったら一体何時に帰れるのかわかったものではありません。 なのでハボックさんは、ここでひとつ提案してみました。 「なんなら俺の部屋来ませんか? この近くなんで」 「おっ、それもいいな。噂の美人にも会えるだろうし」 ヒューズさんがあっさりと頷いてくれたことに、ハボックさんは内心安堵しました。 そして二人は、ハボックさんの家へと向かって歩き出しました。 「そういや、その猫はなんて名前なんだ?」 「ああ、ロイです」 「――ロイ?」 「ええ、最初からロイ・マスタングって名前がついてました」 ハボックさんの云ったとおり、ヒューズさんと出会った場所とハボックさんの家はそれほど遠くはありませんでした。 しかし、途中でコンビニに寄ってお酒やおつまみを買いこんでいたため、ハボックさんの家に着いたのはそれから30分後のことでした。 「どうぞ。狭いですけど、ゆっくりしてください」 「おう、お邪魔するぞ」 1人暮らしのアパートが珍しいのか、ヒューズさんは楽しげにハボックさんの部屋の中を眺めていました。 すると、来客の声に気づいたのか、リビングの方からロイがひょっこりと顔を出しました。 「あ、大佐」 「ほぅ、あれが噂の同棲相手か。確かに美人だな」 じっとこちらを見つめてくるロイに、ハボックさんははたと気づきました。 ロイが自分からハボックさんのところに寄ってくるときは、大抵ある理由があって。 それはつまり、もしかしたらロイは今とてもお腹が空いているのかも知れない、ということで。 「すんません中佐。俺、ちょっと大佐のエサ用意するんで適当に座っててください」 慌ててキッチンに飛び込むハボックさんの姿をやれやれと笑って見送り、ヒューズさんは部屋に上がりました。 玄関からリビングへ向かい、そしてテーブルの奥の方にどっかりと座りこむヒューズさんの様子を、ロイはじっと見つめていました。 「遅くなってすいません。ほら大佐、エサっスよ」 しばらくして、キッチンから出てきたハボックさんは両手に皿を持っていました。 片方の手には、ロイのエサが入ったお皿。 そしてもう片方のお皿には、先程コンビニで買ってきたおつまみを開けてあり、腕にはお酒の入った袋を提げています。 手前にいたロイにエサを向けますが、ロイの様子がいつもと違っていてハボックさんは首を傾げました。 いつもであれば、エサを出せばすぐに寄ってくるのに。 今日はなぜか、来客が珍しいのでしょうかヒューズさんを見つめていて。 「……大佐?」 しかし、ハボックさんの疑問は思いもよらない形で解決することになりました。 「ロイ」 ふいにヒューズさんがロイの名を呼び、手を差し出しました。 ロイはゆっくりとヒューズさんに近寄ると、ヒューズさんの指先に顔をすり寄せました。 ――まるで、ヒューズさんにとても懐いているかのように。 ヒューズさんが頭や首を撫でると、ロイはごろごろと喉をならします。 ハボックさんはただ驚いていました。 それほどまでにロイが気持ちの良さそうな顔をするのは見たことがなかったからです。 「ロイ……久し振りだな」 ヒューズさんのその言葉に、ハボックさんは思いきり目を瞠りました。 |