そのときです。

みゃあ

下の方から聞こえた鳴き声にハボックさんが部屋の中を見ると、ロイが部屋から玄関に降りてきたところでした。
どうやら玄関先での騒動に気づいて寄ってきたようです。
ハボックさんが開けたままの扉からロイはそのまま外に出ようとしましたが、玄関から出る直前にハボックさんがロイを抱き上げました。

「大佐、ダメですよ勝手に外に出たら」

外に出ようと思ったところを邪魔をされて、ロイはみゃあみゃあと抗議の声を上げました。

「わ、いたたたた、痛いっスからマジ、やめてくださいって大佐っ」

腕の中で思いきり暴れて爪を立てるロイに、最近ロイのワガママに慣れてきたと思っていたハボックさんも慌てます。
どうにかロイが落ち着いた頃には、ハボックさんの腕は傷だらけ(というかボロボロ)になっていました。
流石のムウさんもこれには口を挟めなかったようで、腕の中のラウと共に黙って1人と1匹の様子を眺めていました。

「お前さん、まさか……」
「はいっ?」

少し考えこんでいた様子のムウさんが首を傾げながら何か云いかけ、ハボックさんだけでなくラウもロイもムウさんを見上げました。

「ジャン・ハボック少尉、か?」
「はい、そうっスけど」

なぜムウさんがそれを、と思ったところで、ハボックさんはまた「あ」と呟きました。
ムウ・ラ・フラガ――そういえばこの名には覚えがあったような、と考えたことが以前にもあり。
そうしてやっと、今になって思いだしたその名は。

「まさかアンタ……じゃなくて、あなたは、ムウ・ラ・フラガ大尉っスか……?」

聞いたことがあるはずです。
軍内でも名高いエースパイロットのムウ・ラ・フラガ大尉といえば、『エンデュミオンの鷹』の二つ名を持つことでも有名です。
部署が違い全く関わりがないためにすっかり忘れていましたが、今さらながらに思いだしハボックさんはとても驚いていました。








ああそうかなるほど、とハボックさんはまじまじとムウさんの顔を見つめてしまいます。
そういえば確かに軍内で配られる冊子などに顔写真が載っていたかもしれない、などということまで思いだして。
そんなハボックさんの目の前で、ムウさんもまた、同じようにハボックさんの顔を眺めていました。
そうして、2人同時に口を開き――。

『どおりでどこかで聞いた名だと思った』

同じタイミングで同じことを呟き、ハボックさんとムウさんはさらに目を合わせてしまいました。
そこから数秒止まったかと思うと、今度はまた同時に吹きだします。

「ははっ、そうかまさかあのフラガ大尉が隣に住んでるなんて思いもよりませんでしたよ」
「あー、いや俺だってなぁ、話に聞いたハボック少尉とこんなところで会えるなんて思ってもみなかったさ」
「あれ、そういえば大尉、どうして俺のこと知ってたんスか?」
「お前さんのことはヒューズ中佐から聞いてたからさ。知ってんだろ、マース・ヒューズ中佐」
「ああ、中佐から……」

マース・ヒューズ中佐は、ハボックさんの直接の上司ではありませんが、何かとお世話になっている人でした。
ヒューズ中佐はハボックさんを気に入っているらしく、ハボックさんはよく飲みになど誘われるのです。

「そっちに面白い奴がいる――ってな。何かと話題に出てたから一度話をしてみたいと思ってたんだが。まさか隣人が本人だとはな」
「俺だってあんな有名人が猫の飼い主探しでポスター貼り出すなんて思ってもみませんでしたよ」
「ああ、こいつのか」

ムウさんは腕の中のラウを見やります。
ポスターは近所と駅前の目立つところに何枚か貼っただけなのですが、まさかハボックさんが覚えているとは思わなかったのでしょう。

「あれ、結局飼い主は見つかったんですか?」
「……まぁ、見つかったは見つかったんだがな。色々あって、そのまま俺が飼うことになったんだ」

半ば誤魔化したような返答に、ハボックさんも「へぇ〜そうなんですか」と納得せざるを得ませんでした。
なんとなく、突っ込んで聞いてはいけないような気がしたのです。








「それで、その子は少尉の家の?」
「はい、名前はロイ・マスタング。拾ったときから名前はついてたみたいで、『大佐』って呼ばないと振り向いてくれないんです」
「大佐……こりゃ参ったな、俺たちより上なのか」

大人しくなったロイの頭を撫で、ハボックさんは苦笑しました。

「だから大変なんですよ、ワガママで」
「ああ〜なんかそれっぽいな、雰囲気が」
「そっちはどうですか? ラウ……でしたっけ?」
「こいつはいいぞ〜。可愛いし気品があるし、素っ気ないところもまた魅力だしな!」
「……はあ。そうっスか」

明らかにラウにぞっこんなムウさんに、ハボックさんは思わず呆けてしまいますが、人それぞれだろうと思いなおしてどうにか持ち直しました。
そしてひとつ、気になっていたことを云ってみます。

「そいつ、うちのベランダにいたんスけど、散歩とか好きなんですか?」
「ラウが? ……ああ、ときどきふらっといなくなることはあるな。ちゃんと帰ってくるから放っておくけど、そうか、少尉の家にいるときもあるのか」
「なんか普通にベランダにいて気づかなかったんですけど、もしかしてしょっちゅうウチに来てたりするんスかね」
「そうかもな、いつの間にか友達できてたりするから、こいつ」

……となると、もしかしなくてもハボックさん不在時にはハボックさんの家が溜まり場になっていたりなどということがあったかもしれないということで。
そういえば最近あたたかいから窓を開け放しておくことがよくあったのですが、もしやそのときにラウとロイは知り合ったのかもしれない、とハボックさんは思いました。
まあ別に、害があるわけでもないので構わないのですけれど。

「しっかし、少尉までが猫を飼ってるとは思わなかったな」

しかも隣の家で、だ。
いたずらっぽくウインクをしてみせるムウさんに、ハボックさんも笑ってしまいます。
なんだか、猫のお陰でそれまでつながりすらほとんどなかったムウさんとの距離がぐっと縮んだような気がします。

「プライベートなんですから、少尉はやめてくださよ。ハボックで結構です」
「じゃあ俺もフラガで頼むな。あんまり大尉大尉云われると狙われそうで怖いから」

確かに、大尉や少尉という地位の人間がこんな住宅街のよくあるアパートに住むなんてことはとても珍しいことで。
諸々の事情で、ムウさんとハボックさんは軍内部の寮でなく外部のアパートを借りているのですが、外部ともなると、内部の寮ほど警備が整っていないので、下手に軍人であるとバレると何かと面倒なことが起こりやすくなってしまうのです。
――今のところは、まだ何の問題も起こってはいませんが。

「それじゃあハボック、また何かあったらよろしくな」

いくらか世間話も交えた話をして、ムウさんは爽やかに手を振り背を向けました。

「はい、こっちこそよろしくお願いします、フラガさん」

隣室に消えたムウさんの横顔を見ながら、ふとハボックさんは、ムウさんのあの最初の剣幕は一体どこへ行ったんだろう、と思いましたが、でもまぁ今さらだからいいか、と思い直して自室へと戻りました。

それぞれの、帰るべき場所へ。