君のいる風景


……暇だ。
家主のハボックが仕事に出かけると、この家にいるのは私だけになる。
それはそれで別に構わないのだ。
元々何かに束縛されたり始終干渉されたりするのは好きじゃない。
だから、今のこの現状はむしろとても好ましいことであって。
そう、好ましい――はずなのに。
ときおり、やはり少しだけ物足りなさを感じてしまうのは、無意識に以前のあの場所とこことを比べてしまうからだろうか。


床にはハボックが同僚からもらってきたという遊び道具が転がっていた。
整頓されているというよりも物の少ない部屋であったが、私が来てから何かと物が増えるようになったと、そういえば以前ハボックがぼやいていた気がする。
足先で遊び道具を軽くつついて、私は床に寝そべった。
そしてぼんやりと窓を見る。
ハボックは家を出る際、必ずカーテンを閉めていく。
とはいっても、閉めるのは2枚あるうちの薄い方で、それがあったところで向こうの様子がよく見えないだけで光は入ってくるので生活に支障はない。
外の風景の変化によって、窓から差し込む光の加減も変わる。
それを見るのが好きだった。
暇なときはこんな風に寝転がって窓の外を見ているに限る。
うとうとしているだけで、勝手に時間が過ぎてくれるから。

そうしてどれくらい時間が経ったろうか。
ふいに。
ひょっこりと。
何かの影が、現れ、消えた。

それは一瞬の出来事だったのだろう。
私はすぐに身を起こして窓をまじまじと見つめたが、もうそこに影が映ることはなかった。

――なんだ。
なんだ、今のは。

鳥ならば上から下、または下から上、でなければ窓の中央くらいに影ができる。
人間ならば、もっと大きな影になる。
今見えたものは私の視線上、つまり窓の一番下のあたりにあって、むしろ大きさとしては私に近いのではないのだろうかと思えるもので。
また映らないだろうかとしばらくカーテンを見つめていたが、もうそこに何かが映ることはなかった。

試しに、気配をうかがいながらカーテンの向こう側を覗いてみたが、そこにはがらんとしたベランダの、コンクリートの床が広がっているだけだった。








――あれは一体何だったのだろう?

あれを見てからもう数日ほどが経ち、その間ことあるごとに窓に目を向けていたが、再びあれを見ることはなかった。
今日もまた私は窓のほうに身体を向けてぼんやりとしていた。

『……さ、大佐』

ハボックの声と共に身体にかかる衝撃……というか、重み。
気づけば私の身体は元いた位置より少しだけ移動しており、それによって私は自分がハボックに何をされたかがわかった。
蹴ったのだ、奴は。この私を。
いや、蹴ったというより足で押したというべきか。
どちらにしろ、この私を足蹴にするとは何たることか。
――ハボックの分際で。

『わ、あたたたた、痛いっスよ大佐!』

当然だ。
力の限り爪を立てているのだから。

『ちょ、マジ痛っ、マジ勘弁してくださいって』

ふいに私の身体が宙に浮く。
流石に蹴り上げはしなかったなどと関心しながら、私は目の前にきたハボックの顔を睨みつけた。
ハボックが小さくため息をつく。

『……アンタ、そんなに外見たいんスか?』

どうやらハボックは、私が最近窓の方ばかり見ているのを奴なりに気にしていたらしい。

わけがわからない、といった風に首を傾げたものの、奴は私を持ち上げたまま窓に向かうと、少しだけ窓を開けその前に私を降ろした。

『出たいなら出てていいですけど、落ちないように気をつけてくださいよ? 落ちても俺、探しに行きませんからね』

私がそう間抜けなことをするわけがなかろう、馬鹿者。
窓は、私がやっと通れるほどにしか空けられていなかった。
それでも十分に通り抜け可能なのは私が猫だからだろうとこのときばかりはしみじみ思う。
ベランダへと出た私に、部屋の中からハボックが声をかけた。

『あー俺、ちょっと買い物行ってきますね』

わざわざ反応するよりも、私は初めて出たベランダの隅々まで眺めるのに夢中だった。
玄関の扉がゆっくりと閉まる音を、私は遠くに聞いていた気がする。








初めて出たベランダは、思ったよりも広かったようだ。
そもそも世にいうベランダがどれほどのものなのか、一般的なことは知らないけれど、私から見ればそこそこ広いように感じる。
……あのばかでかいハボックを基準に見れば手狭なような気もするが。

ベランダには、隣の家とこの家を隔てるためか両端に仕切りあがる。
おそらく水通しをよくするためだろう、下のほうにはいくらか隙間があった。
ベランダにはまた外に出られないよう壁があった。
壁は下側と上の一部がくり抜かれているような形で、その下の方からは外の風景が見える。
直接外を見るのは久し振りか。
この家に来てから、ほとんど窓越しにしか外の風景を見た覚えがない。
というより、外に興味がほとんどなかったのもあるのだろう。
今まで、外に出たいと思ったことはほとんどない。
自由でいたいと考えたことがないわけでもないが、だからといって一時的な好奇心以外で外での自由を望んだことはなかった。

さてあの影は一体何だったのだろう。
最初の疑問を思い出し、私はベランダを見回した。
このベランダには、影になるようなものはない。
外からの侵入者だろうかと考えるが、やはりこの位置だと鳥くらいしかここには入れないだろうと思う。
ふむ、ともう一度見回し、私は隣家との仕切りに目を向けた。
この仕切りならばどうだろう。
けれど、この隙間では大抵の生き物は通り抜けできないだろうと考え直した。

そう、このとき私はすっかり見落としていたのだ。
大抵の生き物は無理であっても、自分と同程度の大きさであればそこをくぐることは可能だということに気づいていながら。
――自分と同程度の大きさの生き物が、他の家にもいるという可能性を、なぜか意識から外してしまっていたことに。

「……おや?」

ふいに後ろの方から声が聞こえ、私は驚いて振り返った。
そこにいたのは、蒼い猫。
私と同じほどの大きさの猫は、私の姿を物珍しそうに眺め、蒼い瞳をくるりと楽しげに光らせていた。