real


――さようなら、ギル
あの子はそう云って、今にも泣きそうな顔で微笑んだ。



目覚めたそこは常と変わらぬ自室のベッドの上だった。見慣れた天井が広がり、なん らおかしいところはない。首筋にはりついた髪が煩わしくて首に手をやると、どう やらうっすらと汗をかいていたらしいことがわかった。
一体どうしたというのだろう。
頭の中に靄がかかったような妙な気分だ。寝ぼけているわけではないが、爽快な目 覚めともいえない。どうしようもないままに上体を起こして軽く頭を振り、ギルバ ートはゆっくりとベッドから降りた。
なにかが足りない、と思った。
いつもならば、起床してすぐにシャワーを浴びる。そうして身支度を整えてから 朝食をとるのだが、この日はそれをするのも億劫で起きたままの姿で食堂へと向 かうと、朝食の準備をしていた養い子がテーブルのセッティングをしているとこ ろだった。
この屋敷での食事はほとんどが厨房の者の手によって作られ、使用人によって並 べられるが、いつからか休日の朝食のみこの子がセッティングをすることが暗 黙の了解となっていた。
いつもならばギルバートがこの部屋にやってくる頃には全ての準備が整っている が、今日はやはり早すぎたらしい。綺麗に洗われたまっさらなテーブルクロス を広げながら、養い子はふと顔を上げ、扉を開いて立ち尽くしたままのギルバ ートに気づくとわずかに目を見開いた。
「おはようございます、ギル。どうしたのですか、そのような格好では――」
驚いたようにその子はギルバートの前に立ち、どこか具合でも悪いのかと心配 そうな顔でこちらを見る。
ふわりと揺れる金の髪が美しいと思った。真っ直ぐに覗いてくる蒼い瞳が愛お しいと思った。
目の前にあるこの姿が全てだ。疑う余地などあろうはずもない。この子はこう して自分の前にいて、その瞳に自分の姿はいつだって真っ直ぐに映されているはずで。
――いつも、ならば。
「……ギル?」
その細い身体を抱きしめると、困惑したような声が耳元で響く。あたたかな身 体が腕の中にあった。
こんなに細い身体であるのに、この子は自分などが知り えぬほどのものを背負っている。知らずとも悟っているだろうそれを、今は伝 える術を持たないのだけれど。
この子がこの腕の中にいるという、その事実が当然のように思ったのはいつか らだったろう。
いつ消えるとも知れぬ命だというのに。いつ自分の手を振り払いどこか遠くへ 行くかも知れぬ子どもだというのに。
それでも今はまだ、ここに。そう思ってしまうことは自分のエゴだろうか。それ ともただのワガママだというのか。
なんにせよ、この子をそう簡単に離してなどやるものかと、当人がいくら望 もうと、今はまだどこへも行ってはならないと、そうやって縛りつけている自 分がいることだけは確かだった。
それを愚かなことだと示す人もいるだろう。自覚はしている。こんな子どもにどう して執着することがあるのかと。――わかっては、いるのだけれど。
「ギル?」
戸惑うような声音に、ギルバートは抱きしめる腕に思わず力をこめた。
力を入れすぎたのか、腕の中のその子が小さく息を詰めるのがわかったがなにも 云わずにただその首筋に顔をうずめると彼は諦めたようにゆっくりと息を吐く。
そうして、ギルバートの背中に腕を回すと真似るようにきゅっと力をこめる。
「ギル」
ぽんぽん、と軽く背中を叩かれてギルバートは目を見開いた。
背中から伝わる軽い振動は背筋を伝って緩やかに頭に響く。腕の中のぬ くもりとは異なるわずかな刺激が、ギルバートの意識を揺さぶった。

「――ギル。大丈夫、俺はここにいます」
――さようなら、ギル。

同じ声が頭の中で反響する。同じ高さ同じ温度をもつその声は、しかし 全く違う意味合いでもってギルバートの脳を支配する。
やっとのことでまともに機能し始めた自らの意識に、ギルバートは内心 で苦笑する。一体なにを恐れていたのだろう、自分は。恐れるものなど 最初からなかったというのに。この子がここにいてこうして存在するとい う、その事実以外に欲するものがあるとでもいうのだろうか。
衝動的な自分の所業を恥ながらも、レイに詫びなければと押さえつける ように抱きしめていた腕を離すと、レイもまたその様子に気付いたの か背中に回していた腕を解く。
けほ、と小さく咳きこんでいるところを見ると、どうやら少なからず肺 を圧迫してしまっていたらしい。そんなところにも気も回らぬほどに自分 は我を忘れていたのか。
「……すまないね、レイ」
その顔を覗きこむと、大丈夫だとでもいうようにレイは小さく微笑んだ。
この子が、こんな風に自然に笑うようになったのはいつからだろう。出逢 った当初からそれなりに懐かれていた覚えはあるが、それでも赤の他人で ある自分に対してこんな風に好意的な感情を自然と表すようになるにはそ れなりに時間がかかったように思う。
だから本当は驚いていたのだ。
小さな子どもに、自分が純粋な行為を寄せられるなどということ を、親や兄のように慕われるなどということを、これまで予想だ にしていなかったことなのだから。
しかしそれでも彼はこうやってここにいて、いつでも振り返ればや わらかく微笑んでくれる。この空間が愛しいと思うことは、今ではな んの不思議もないことだった。
だから、気にすることはないだろう。
こうしてここにある風景こそが、今は違えようもない真実なのだから。