40.どきどき



それは決して常にあることではなくふとした瞬間に訪れるものであり。
そうでなければ今こうやって、彼の近くにいられるわけがないはずで。

ふと手元の書類から顔を上げると、つい先刻まで目の前のソファに座っていた男が消えていた。
飲み物でも取りに立ったのだろうか、それとも――といくらかの推測をたてかけ、思考を停止させた。
どうせ放っておいても、しばらくすれば嫌でも戻ってくるのだ、あの男は。
だったら今こうしてやつのことを考えてやる筋合いもなかろう、と再び書類に視線を落とす。
それからどれほどたったろうか。
ふいに背後に気配を感じ、けれど振り返ることもないと放っておいた数秒後のこと。
顔の横から伸びてきた手に肩を抱かれ、あたたかなものが首筋をくすぐる。
そうして。

「愛してるよ、ラウ」
「――」

なんだ。
なんだ今のは。
おそらくそれは、決して存在しないと思っていたもの。
ありえるわけがないと、疑いようもなく思っていたこと。
なんだなんだ、とわけのわからないことに脳内が混乱しだすのがわかる。
しかし後ろの男はそんなことを気にも留めていないようで。

「お前だけだ」
「――っ」

囁かれる言葉、その声、腕から背中から伝わるぬくもり。
その全てが。

「やめろ」
「どうして」
「放せ、ムウ」
「嫌だね」
「放せというのが……っ」

「だってお前、俺のこと好きだろ?」

――これは一体、どうしたことだというのか。

依然と絡みつく腕を振り払い、にやけているだろうその顔を一瞥することもなく私は部屋を出た。
頬に当たる風が、冷たくて心地が良い。
今日はこのまま歩いて帰ろう。
そう思いながら、私は空を見上げてひとつ溜息をついた。




    こんなこともあるかな、なんて。