34.タイル 「うおっ」 危うく頭から転倒しかけ、とっさに壁に手をつくことでどうにか自らの身を支える。 足の下の、傷ひとつないタイルをじっくりと見つめ、ムウは思わず安堵の溜息をもらした。 ここは、とあるコロニーにある最上級のホテルのバスルーム。 そこは高級なだけあってバスルームも豪華で、扉を開けた正面に洗面台、右手には浴槽、左手にはトイレと奥にはガラスで仕切られたシャワーブースがあった。 一介の軍人がプライベートな宿泊に利用するとは思えないようなホテルだが、この部屋の利用者はムウと同じく軍人で。 敵軍に属するその将校の名を、ラウ・ル・クルーゼという。 今回もまた、ラウの元に半ば意図的に転がりこんだムウは、逢瀬と称してちゃっかり部屋に上がり、主に続いてシャワーまで浴びていたのであった。 湯を張った浴槽に浸かりながら、ムウはバスルームの隅々まで目を走らせた。 洗面台のふちは細やかな金で飾られており、それは場所によっては幾何学模様を描いていた。 小洒落た形のライトに、不思議な形をした蛇口の取っ手など、細部にいたって細工が施されている様は、さすが高級ホテルというべきだろうか。 その中でも気づくと目につくのは、床に敷き詰められたタイルだった。 傷ひとつないまっさらなタイルはけれど白一色というわけでもなく、ところどころに灰や褐色などを混ぜつつ上品な雰囲気をかもしだしていた。 先刻は、きちんと足を拭かないままにこの上を歩いたために転びかけたんだよな、と苦笑をしながらも、数箇所の輝く部分にムウは気づいた。 そこは濡れたままのムウが歩いたことによりうっすらと水溜りになっており、ライトの光を浴びてきらきらと光っていた。 ぼんやりとタイルを見つめていたムウは、ふいに思いたってゆっくりと唇の端を吊り上げた。 「ラウ、ラーウ」 バスルームからやかましく響く声に、ラウはわずかに眉を寄せる。 放っておいても良いのだがそうすると後が面倒になるだろうことは目に見えていたので、手にした資料をベッドに放り投げ、面倒くさげに立ち上がると極めてゆっくりとバスルームに向かった。 扉を開けると、水気を多く含んだあたたかな空気が顔を直撃する。 顔をしかめたままバスルームをのぞきこむと、浴槽に浸かったムウが楽しそうにこちらを見つめていて。 「悪い、タオル取って」 なんの悪気もなさそうな顔をしていながら、その実そういった笑顔が最も手に負えないことをラウは経験上熟知している。 下手に逆らうよりは適度に受け流していた方が面倒ごとが減ることも承知の上であるのだから、仕方がないと思いながら示された方に目を向けると、シャワーブースの入り口に使いかけのバスタオルが丸まっていた。 仕方なしにタオルを拾ってやり、浴槽のムウに放ろうとしたところで、ムウからストップがかかった。 「投げるなよ、ラウ。落したら濡れるじゃないか」 暗に持ってこいと云っているのはわかるが、その笑みはなんだ、とラウは思う。 この男と共にいて妙な悪寒がするのはいつものことであるが、今回のものはまたタチがわるそうな、そんな予感がする。 けれどバスルームで立ち尽くしているわけにもいかず、一歩二歩と歩きもう少しでムウに手が届くかといったところまできたとき。 突然浴槽から身体を伸ばしたムウが、まだラウの手がしっかりと掴んだままのタオルをわしづかみ、引き寄せた。 わずかに濡れたタイルに足をとられたラウはバランスを崩し、引かれるままに前方に倒れこむ。 眼前にせまる浴槽のへりに手をつきどうにか衝撃を和らげようとしたものの、タイルに直接当たった膝が痺れるような痛みを伝え、わずかに顔をしかめた。 「…………っ」 ほんの数秒、痛みをこらえるように沈黙したラウであったが、ふいに視線を感じ顔を上げると、今度は思いきり顔をしかめる。 目の前には、してやったりと云わんばかりのムウの笑顔。 彼のそんな笑顔は、こういった場面において最もよく効果があらわれる。 もれなくそのへらっとした満面の笑みを殴りつけたいような罵倒したいような衝動を引き起こしながら。 「――っ、貴様……!」 ムウに対するものだけではなく、こんな単純な手に引っかかってしまった自分に対する苛立ちも含めラウは短く吐き捨てた。 そんなラウを、ムウは変わらぬ笑みで楽しげに見守っていて。 「な、ラウ。ちょっとだけ一緒に入らないか?」 |