愚者の讃歌  (百題26:とりあえず)



「……愚かだな」
「ん?」
まるでその日の天気でも問うかのように何気なく発せられた言葉に、ムウは思わず首を傾げてみせた。
やわらかな光の広がる午後、心地の良い時間であるはずが、ラウはソファに沈んだまま何をするでもなくじっとテレビの画面に目を向けていた。
画面に映るのは、紛争の絶えない地域に送りこまれたキャスターの、命がけともいえる必死の報道。戦地から多少の距離はあるようだが、それでもひとつの弾丸が飛んでくれば命の保証はない、そんな場面だった。
「いつの時代も人間は愚かで、他のどんな生き物よりも醜い」
身振り手振りで現状を伝えるキャスターの説明を受け、スタジオの中にいるメインキャスターたちは神妙な顔つきでコメントを述べる。
平和で平凡なスタジオは、それこそが日常であるかのように画面の中にあり、紛争地帯の映像などはただの情報のひとつとして流されていくだけだった。
次は心温まるニュースです、とキャスターが笑顔を浮かべるそのとき、戦地のキャスターの危機などは瞬間に画面から消えうせてしまう。
「遠ければ知らぬものか。目の前になければ何も見えないというのか。自らに降りかかる火の粉さえ払えば他の大火など知らぬものだと、そういうのか」
吐き捨てるように呟くラウの背中を、ムウはただじっと見つめていた。
そう語るラウにかける言葉を、ムウは知らない。
「――いや、人間に、私が何か云えることなどはなかったな」
ラウは自嘲気味に笑うと、顔の上に手をかざして天井を仰ぐ。
「私など所詮、人の形をとった紛い物だ。お前の父の器を有し、人の持ちえる知識を持ち、人の為しえる行動を起こすだけの存在だ。どうあがこうと人間になることはできず、人間を越えることもない」
手の甲を目に当て、くつくつと笑う。
その瞳を見ることは叶わない。彼は静かに笑っていた。それだけだった。
「それでも私はその愚かな人間の道筋をたどるしかないのだろうな。どんな行く先を示そうと、それは繰り返された愚かな歴史そのもので私の作り出したものではない。人が人である限り、滅びの道を辿らないことはない。愚かだな。全くもって、人というものは愚かで醜いことこの上ない」
「……ラウ」
「どれほどの知識を、技術を持とうとも滅びの道を進み行くのが人というものだ。今さらに語りつくされた必然の未来を、未だに見ぬふりをしていられると思っている。終末はいつでも目の前にあるというのに。けれど人はそれを、誰も知ることがないだろうよ」
「ラーウ」
最後に一息で云いきったところで、ムウはラウを背中から抱きしめた。
ようやく口をつぐんだラウの胸元をぽんぽんと叩き、もう片手はラウの持ち上げられた手を受けとめた。
「わかったからさ。……あーいや、実はあんまりよくわかってないかもしれないけど」
冷たいラウの指先を温めるように手のひらに包みこみ、引き寄せるとその甲に唇を寄せる。
「とりあえず、飯にしようぜ」
ラウの手を頬に当てる。
ひやりとしていて、けれどとても心地の良い手のひら。
嫌がるそぶりを見せないからと、甲から手首へ、そして指の関節、指先にと口付けを落としていった。
されるがままであったラウは、しばらくしてから小さく、ごく小さく笑い。
「……そうだな」
その言葉でやっとムウはラウを解放し、立ち上がるとキッチンへと向かう。
テレビを消し、ムウを追うようにラウは立ち上がったが、しかしふとテレビに目を向けた。
何も映らぬ黒い画面の、その向こう側を透かして見るように。




百題「26.とりあえず」より
情緒不安定気味ラウ?