君の笑顔 僕だけのものに
この家にやってきてから、ラウの表情は大分豊かになってきたとムウは思う。
もちろんあからさまに感情を表に出すことはないが、些細な表情や感情の変化が少し、ほんの少しだけわかりやすくなったような、そんな気がするのだ。
……慣れといってしまえばそれまでかもしれないけれど。
暇だと一言呟いたまま、ラウはテレビをつけっ放しにしてソファに沈んでいた。
昼食を作る手を止めてムウはラウの様子を伺うが、やはり先刻と同じようにクッションを抱えて横になっている。
こんなにリラックスしたラウを見るなんてことも、当初は考えられないことだった。
どうしたっていつも、どことなく気を張っていたラウの姿は、気難しいとか大変そうとかいうよりもむしろ気の毒なほどで。
穏やかな表情も、力を抜いた姿勢も、かつては思い描けなかったものが今では自然と目の前にある。
日常の何気ない場面がこれほど大切だと知ることができたのは、ラウがいたからだ。
きっとラウがいなければ、こんな風に感じることはなかっただろうと、ムウは確かにそう思う。
「ラウ、飯だぞ。寝るなよ?」
料理を盛った皿を、ラウの寝るソファの前にある低いテーブルに置くと、ムウはラウの顔を覗きこんだ。
やはりぼんやりしていたのか、ラウははっと驚いたような顔をし、次に少しだけ眉を寄せた。
それは特に怒っているわけではなく、ほんのわずかな気まずさからくる反応なのだと、今だからムウにはわかる。
座りなおしたラウの隣に座ろうとすると、ラウが少しずれてスペースを空けてくれた。
そんな何でもない行動ですら自然と頬が緩んでしまうとは、我ながら幸せなアタマをしていると思うが、そんな自分も嫌いではないのだからどうしようもない。
今日のランチは、ピラフと野菜スープ。
冷蔵庫の中身を整理がてら、使えそうな材料を適当に全て放りこんだために具は豊富だ。
「うん、けっこーイケるな」
「……まあまあだな」
「なんだよ、ありあわせの材料だけでここまで作れるのは俺だからこそだぜ?」
ラウが普段はほとんど料理をしないことを揶揄してやると、その意図に気づいたのかラウは憮然とした顔をみせた。
「ふん、私とてこれくらいは作れる」
「じゃあ今度作ってくれよ」
「――気が向いたらな」
口の端を軽く上げて、意地の悪そうな笑みを浮かべる。
それはとても板についたものではあったが、かつての冷たいだけのものとはやはり異なり、どこか楽しげな様子が見え隠れしているように思えた。
そう感じられることが嬉しくて、ムウは思わず食器を置くと隣に座るラウを抱きしめた。
「――っ、ムウ!」
こちらは食器を持ったままだ、とラウはムウを睨みつけるが、その程度の抵抗でムウを止められるわけがない。
「ムウ、食事中だ」
「知ってるって」
「ならば放せ」
「い・や・だ」
呆れたような溜息をひとつ零し、ラウは抵抗を諦めて身体の力を抜く。
ムウはここぞとばかりにぎゅっと力をこめるが、今さら仕方がないと思ったのかラウから文句の言葉はなかった。
「……」
なんのアクションもないムウに、ラウが不思議そうな顔をするが、ムウからはその様子が見えない。
ムウは、ラウの頭に額を合わせるようにして、そのまま目を閉じていた。
香水の類はつけないラウからはいつも、甘いシャンプーの香りがする。
ムウとは同じものを使っているはずなのに、どうして彼からはこんなに甘やかに香るのだろう。
「……ムウ?」
「んー……なんかさぁ、幸せだなぁって」
幸せ。
いつだって漠然とした意味しかわからないそれは、なぜかこんな瞬間にこそ実感することができるもので。
隣にいるだけ、触れているだけ、抱きしめているだけ――たったそれだけのことで。
だから、嬉しくて。だから、幸せで。
――そう、きっと幸せなんてそんなものなのだ。
好きだよ、ラウ。
声にならない声。音に変わらない囁き。
届いたのか届かなかったのか、ラウがわずかに身じろぎするのをやんわりと押さえつけ、腕の中から放さないようにする様は、まるで親にすがる子のようだと思わないでもなかったけれど。
「好きだよ、ラウ」
今度こそ声に出して呟くと、ラウの肩が少しだけ揺れたような気がする。
そんな反応が楽しくて、同じように何度も何度も囁くと、ラウは腕の中でむずがる子供のように暴れだした。
「放せ、というのが……っ!」
「わかってる。もう少しだけ」
途端に真剣みを帯びる声に、ラウは思わず動きを止める。
そうしてムウは、ラウの髪に顔をうずめて目を閉じた。
もう少しだけ。
できるなら、これからもずっと。
このままでいたいと思うのは、我侭だろうか。
腕の中のこのぬくもりは嘘ではないとわかっているけれど。
これが離れゆくときなど、想像もつかないけれど。
それでも。
ふいに小さく、本当に小さくラウが溜息をついたことに気づいた。
「――本当に、馬鹿だな。お前は」
「なっ……」
なんだと、と云いかけた口はそのままの形に固まってしまう。
「だから、馬鹿だというんだ」
くすり、と笑う。
それはほんの一瞬の出来事で。
こんな間近でなければ、きっと見逃していただろうほどのことで。
――ああ、もう。
ムウは思わず、ラウから目を離して天井を仰いだ。
ラウが怪訝そうな顔でこちらを見ているのがわかったけれど、あえてなにも言い訳をすることはなかった。
できるわけがなかった。
思わず見惚れていた、なんて。
云ったら最後、多少の恥ずかしさは含んでいたとしても、呆れられるか見下されるか流されるかのどれかの反応しかありえないだろうことはこれまでの経験上熟知している。
けれど、と思う。
そんな顔も、自分だけが見られるものだと思うと嬉しくて仕方ない。
これだからラウを誰の目にも触れさせたくないと思ってしまうのだ。
ラウにはもっと、自分以外のたくさんの人と交流して数えきれない楽しいことを経験してほしいと思うのも確かな本心ではあるのだけれど。
それでも、今は。
この小さく何ものにも代えがたい幸せを、自分だけのものとして胸に抱いていられることに計り知れない喜びを感じていて。
どうか、もう少しだけ。
この笑顔、僕だけのものに。
妄想というか、けっこうマジ?(笑)
ちょっとだけ進展してるみたい。
良かったね、ムウ。
2004/05/04