何かに突然突き刺されるような感覚。
今だ、とどこからか声がする。
今だ、今でなければ。
――失うぞ、また。
カーテンの隙間から差し込む一筋の光。
朝の日差しは強い。
その鋭さから逃げるようにムウは顔を背けた。
背を丸めて二度寝の体勢に入ろうとしたとき違和感を感じ、何気なく手を伸ばす。
冷たいシーツ、人の気配のない空間。
……誰も、いない?
「――!」
勢いよく飛び起き、一気に眠気が覚める。
案の定、隣の空間はもぬけの空。
まさか、と嫌な予感が背筋を冷やす。
床に落ちている服を適当に身につけ、慌てて部屋を出るとまっすぐにリビングに向かう。
この家に来て真っ先に見た部屋。
淡い光が部屋中に差し込み、広くゆったりとした、彼の気に入りの場所。
いないわけがない、と半ば自分に云い聞かせるようにリビングの扉を開いた。
ふわ、と。
ふいに鼻腔をくすぐる香ばしいような甘いような香り。
「……え?」
思わず呟き、その正体を探ろうと部屋の中を見回すと。
朝の光が差し込む窓辺。
薄いカーテンから落ちる光にさらされ、窓辺に浮かび上がるように佇む姿。
それはまるで、ほんの一瞬でも目を離したら消えてしまいそうな。
「――ラ、ウ?」
無意識に零れた声に、窓辺の彼が振り返る。
白磁の肌、金糸の髪、射抜くような蒼い瞳。
その全てから目を逸らすことができない。
思わず見入ってしまったムウに、ラウは怪訝な顔で首を傾げた。
「……ムウ?」
流れた髪が肩に落ちる瞬間さえ。頬にかかる様子さえ。
光に包まれた彼がこの世のものではないのではという不明瞭な疑問を沸き起こすには充分で。
もし、このまま彼を見つめ続けていたら。
彼はある瞬間突然に、消えてしまうのではないだろうか。
泡となって、塵となって、もう二度と、触れることすら叶わないのではないだろうか。
失うのか?
――『また』?
「ム……っ」
名を呼びかけながらも、突然のことにラウは言葉を切った。
気づけばラウは、ムウに横から抱きしめられるような格好になっていて。
両手も一緒に抱き込まれているから、容易に身動きも取れない。
様子がおかしいと思って声をかけてやれば、これだ。
やはりそう慣れないことはするものじゃない、とラウは小さくため息をついた。
「何をしている、ムウ?」
ん、と理由もなく頷くムウに、違和感を感じてラウは彼を見上げようとした。
けれど、半端な体勢なうえ、ムウの顔は今ラウの頭の後ろにある。
どうしたものかと考えあぐねていると。
「わかんねぇ……けど、なんか、お前がまた消えちまう気がして……」
不安、なんだ。
わずかな呟きは、だからこそ切実で。
ラウは嘆息して、胸の前に回された腕にそっと触れる。
「ここにいる私は夢か幻か? それとも――ヒトですらないものか?」
ぴくりとムウの腕が揺れた。
「それに失礼な奴だな。またとは何だ、『また』とは」
拗ねたような口調でぽつりと洩らされた言葉に、ムウは胸を突かれる。
抱きしめる腕に力を込めた。
柔らかな髪に顔をうずめる。
甘やかな匂い。
そうだ、と思った。
そうだ、彼はちゃんとここにいる。
確かに自分の腕の中で、穏やかな顔をしているじゃないか。
なにを不安がっているのだろう、と思った。
ここにいることを選んだのは、自分で、彼で、他の何ものでもないというのに。
自分を信じろというくせに、当の本人は変なところで自信を失いかけて。
馬鹿、みたいだ。
「――馬鹿、だな」
お前も、私も。
「……ん」
時間よ止まれそして永遠に。
なんて、嘘。
「いつまでくっついている気だ、離れろ」
「ええーいいじゃんもうちょっと」
普段と変わらぬ軽口の展開に安堵したのはどちらだったか。
「てか何でお前だけコーヒー飲んでんだよ、ずりぃ」
「ずっと持っていたぞ……? 気付かないお前が悪い」
手にしたカップを持ち上げて、首を傾げる。
先刻から部屋に香っていたのはこれだったか、とムウは頷く。
「あーなんか腹減ったな。何か作るか」
「……オムレツとサラダ」
「はぁ? 朝っぱらかなんでそんなもん」
スクランブルエッグでいいじゃないか、という妥協案に、ラウは首を縦に振らない。
じ、とムウを見つめる。
無言の駆け引き。
「…………わかった。面倒だから中身はチーズな」
その妥協案には満足したようで、ラウはソファに身を沈めるとテレビをオンにした。
キッチンに立ったムウは、鼻歌まじりに手際よく材料を並べ出す。
カーテンから差し込む光は、強いながらもまだ柔らかい。
テレビから女性キャスターの元気な声がする。
――今日はとてもよく晴れた一日になるでしょう。