祈り 今でもはっきりと覚えている。 それは幼い頃の思い出のひとつ。 数え切れないほどの思い出がある中で、なぜかそれだけは未だ鮮明に覚えている。 あのとき、もし――。 「ムウ」 か細い声が自分を呼ぶ。 けれど、いつもならばすぐに駆け寄って抱きしめてやるその声に、その日ばかりは振り返ろうとしなかった。 普段ならば、よほどのことがない限り、自分が彼の願いをきかないことはなかったのに。 理由はわからない。 ただじっと足元を睨みつけ、彼に背を向けることしかできなかった。 「こっち向いてよ」 今にも泣き出しそうなその声に知らないふりをして、足元の小石を蹴り上げた。 彼はきっと、涙を流しているだろうと思った。 「ムウ」 変わらない日常のはずだった。 このままずっと、同じように日々は続いていくのだと思っていた。 ――彼の、あの目を見るまでは。 「……なに? どうかしたのか?」 彼は真っ直ぐにムウを見つめていた。 見つめている、はずなのに。 どうしてか感じるのは、彼が『ここにいない』感覚で。 ここにいるのは誰だ、と思う自分がいることに気付いた。 「私は、行く」 堅苦しい口調。 普段から彼は他人を突き放したような話し方をするが、こんな切り捨てる風ではなかった。 少なくとも、自分に対しては。 「行くって、どこへ?」 「わからない」 「何だそれ」 「けれど、行かなければならない」 「おいっ」 こっちこそ、彼が何を云っているのかわからない。 しかし様子を見る限りでは、彼自身も未だに自分の意思が固まっていないようで。 それでも、わかっていることがある。 こうなった彼を、止めることはできない。 ――誰にも。 「待てよ!」 背を向ける彼を思わず見送りかけ、一瞬後に我に返ってその後を追った。 腕を掴んで、無理矢理こちらを向かせる。 「お前、何があったんだよ!? いきなりそんなこと云われてもわかんねーよ!」 「放せ」 「放せるか! 説明しろよ。俺にもわかるように、ちゃんと、全部!」 しっかりと向き合って、彼の顔を覗き込んで、その瞳を見つめて。 そうして、気付く。 彼に感じた違和感。 瞳の奥の虚無。 「私は知ってしまった。だから行かなければならない」 「知ったって、何を?」 「私は私を知った。私がなぜここにいるのか。だから私はもう、ここにはいられない」 「はぁっ? そんなんじゃわっかんねーよ!」 加減を考えずに彼の両腕を握り締めて、強く揺さぶる。 端正な顔立ちが、苦痛に歪んだ。 「……知らなければ、よかった」 「は?」 「何も知らずに、このまま、お前といられたらよかった」 「お前……」 「けれど、もう後戻りはできない」 その言葉だけが、やけにはっきりと聞こえた。 「無理なんだ、もう。どんなに望んでも、祈っても、ここにはいられない……っ」 「お前――」 小刻みに震える彼の身体。 こんな彼を、今まで見たことはない。 ――一体何があった? これほどまでに彼を怯えさせる何かが、きっとあったのだ。つい最近。 「お前、日曜に誰かに会うっつってたよな? 誰に会った? 何を云われた?」 びくり、とあからさまに身体が震える。 「……いやだ……」 「おいっ」 「いやだ、嫌なんだ……だってここは、ぼくは……」 「ちょ、大丈夫か!?」 「ずっと、お前と……お前がっ……けどっ」 零れ落ちる雫が、綺麗だと思った。 ――誰にも渡したくないと、初めて、心の底から思った。 そうして気付けば、彼を胸に抱え込んでいた。 暴れようとする彼の頭を押さえつけ、隙間などつくりようがないほどに。 それは激情が作り出す刹那の祈り。 彼の手が自分の背にまわされるのがわかった。 服を握り締め、引き剥がそうとするように、しがみつくように、かつてないほど強い力で。 「……っ、……ぅ……くっ……」 彼はただ、声を押し殺していた。 何かの叫びをこらえるように。 自分自身を押し込めるように。 そうして腕の中で。 彼の力が失われていくのにそう時間はかからなかった気がする。 けれど。 ――次に目覚めた瞬間、感じたのは喪失感だった。 『こっち向いてよ、ムウ』 ――あのとき。 振り返ってやれば、駆け寄っていつものように抱きしめてやれば、彼は自分の元から離れることはなかったのだろうか。 しかしそれはただの憶測にすぎず。 どれほど過去を振り返ろうと、進み出してしまった『今』を変えることはできない。 変えられるのは、過去ではなく、現在でもなく、あてもなく広がる未来のみだ。 その中のどれが本当の道なのかはわからない。 それでも。 (なあ) 求める想いは途切れることがなく。 (お前は今、どこにいる?) ただただ、祈りながら彷徨い続けるしかなかった。 「――ラウ」 愛しい者の名を呼びながら。 |