here (百題51:ここだよな)
抱き上げた身体はひどく冷たかった。 人の身体はこんなにも小さく脆いというのに、彼はあれほどまでに大きな力と想いを背 負ってここまで走り続けてきた。 どれほどに彼が強くあったのか、彼がどのようにしてここまで来たのかはムウには知 る由もない。 しかし、この腕の中にいる彼のその表情はとても穏やかだ。 彼がこんな表情を浮かべることなど、これまでにあったのだろうか。ただ目を閉 じて流れに身を任せることなど、自分だってそう簡単にできることではないのに。そ れでも、ここにいる彼が本当の彼の姿だと、今はそう思えた。 こんな風に、なにもない場所でなにもせずに穏やかに眠り続けたかったんじゃない のか、お前は? 「ラウ、ここにはなにもないよ」 そこはとても綺麗な場所だった。 周囲のいたるところで小さな光が爆ぜて、ちらちらと光の粒子が舞う。け れど、ここが闇の中なのか光の中なのかはどうも判断しかねるもので。 ただこの場が、あたたかくてやさしい空気に満ちているということはすぐにわ かった。ここはきっと、今までいたどの場所よりも自分たちにやさしく在って くれるのだろう。 「なにもないんだ、ここには。争いも憎しみも痛みも――」 わかるか、と腕の中の彼に問いかける。 彼は未だ目を閉じたままだけれど、早くその重い瞼を上げて周囲を見ればいいと思う。ここはこ んなに綺麗であたたかいのに。 「ここにはなにもないし、誰もいない。俺はいないし、お前もいない」 なぁ、ラウ。お前には見えないか? ここはこんなにも光に溢れている。お前は 世界が嫌いだったけれど、きっとここは好きになる。 それは、予想ではなく確信。だってここは、こんなにも美しい。 「――だけど、みんな消えたわけじゃない。俺たちはひとつになるんだ」 誰もが最初は同じものだったのに、どうしてこれほどに変わってしまったのだ ろう。違うからこそ面白いともいうけれど、それでも最後はみなこんな風にな っていくのならば。もしここを知っていたら、人は、世界は、あんな風にならなかったのだろうか とムウはふと思う。 ここは少しだけ切なくて、けれどこんなにもあたたかな場所なのだから。 腕の中の彼は未だ目を閉じたまま。 けれどその表情は穏やかで、なによりも彼がこんな風に自分の傍にい ることが嬉しくて仕方がない。 「なぁ、ラウ。お前の求めた本当の世界は――」 問いかけ、ムウはその白い額に唇を寄せた。 彼の睫毛が揺れたような気がして、その綺麗な顔をじっと見つめる。深い 深い眠りから、彼は目覚めるだろうか。 目を開いたら、新しい美しい世界 が広がっているのだと、彼は知るだろうか。 彼の瞳は、とても深い静かな蒼。海の底の水を掬って太陽にかざしてみ たら、きっとこんな色をしているのではないかと思うほどに。 とくん、と胸が高鳴って、ムウは頬を綻ばせた。 ――あぁ、どうして君 を見るとこんなに嬉しい気持ちになるのだろう。誰よりも自分を醜いと 思っていた君だけれど、俺の目には君は誰より美しく見えるのに。 声を聴きたいと、願うことは罪ではないだろう。 彼の口から発せられる、彼の言葉が聴きたい。 誰でもない君の、君だけの声が聴きたい。 ほんとうの君はここにいるのだから。 |