ざあ、と風が流れ、周囲の景色が一斉に揺れた。
視界に映る儚げな薄紅とそれを支える濃い茶の色合いは、透き通るような 青空の中で対照のようでいてより印象的に見える。
そんな風景を前にして傍らに立つ少年が、ほう、と溜息をつくのに気づいたム ウは笑みを深めた。一歩後ろに立つ青年もきっと同じような表情ををしている だろうと、そんなことを思いながら。
わずかながら、けれどゆっくりと壮大に動き、時間ごとに姿を変えていく風 景の中に彼らは立っていた。
息を呑んで見つめるは、ひらりと舞う桜花。






     blossom






それはムウの一言から始まった。
きっかけはニュース番組だったろうか。お花見の季節です、そんな言葉に、バイ ト先の同僚から聞いた穴場の花見スポットを教えてもらったことを思い出したのだ。
花見の季節になると人でごった返すとある公園の一角。地元住民にもほとんど知られてい ない、ゆったりと花を見るには絶好の場がある、と。
せっかく大学も春休みなのだから、互いのバイトの休みが重なる日に花見に行こう、そ うムウが云ったときのラウの反応は予想外に良いもので。珍しくムウの提案に乗り気 そうに見えたラウは、しかし楽しげにこう加えたのだった。
「ならばレイも誘ってみよう」
レイというのは、昨年のクリスマスにムウが駅前で拾った少年で。ゆえあって2日ほど この部屋に泊めてからのちもなにかと付き合いがあり、レイと彼の保護者ともこれま でに何度か顔をあわせている。
滅多に人を寄せつけないラウが初対面であるにもかかわらずその少年を自らの懐深く に招きいれ、少年もまたなぜかラウによく懐いていて。
そんな2人を見ているのはとても楽しい。ラウの穏やかな表情を一歩離れたところから 見るのは新鮮だし、レイとラウの組み合わせは目の保養にもなるし。
けれど――と思いかけたとき、ラウが怪訝そうに首を傾げた。
「どうした?」
「へっ?」
「妙な顔をしている」
ラウに指摘されたものの、ムウ自身はそんな変な顔をしているなどと思うはずも なく。そうだろうか、と自分の頬触れてみるも、やはりそれは変わらない自分の顔で。
思わずラウを見つめ返すと、ラウは小さく溜息をついた。



ムウやラウと同じく春休み中であるレイを誘い、3人で隣町の駅へと降り 立ったのがある平日のこと。
向かった先は、その地域で一番大きな公園でありその辺りでは有名な桜の 名所であるためか、平日でありながら駅から公園へ向かうバスの中や公園 へと続く道路は混雑していた。時期が時期であるため仕方がないとは思うけれど。
しかし、人ごみを抜けてムウがレイとラウを連れて行ったのは、それまで の混雑が嘘のように静かな場所で。
壊れかけの柵を越え、どうも勝手に入ってはいけないような雰囲気の敷地に 足を踏み入れた。
その先には、薄紅が空を覆うように広がっていた。
ここにくるまでに見た桜並木とは比べようもない、乱立するように植えられた桜た ち。まともに手入れもされてないだろうその場は、しかしこれまでのどんな 桜よりも生き生きと、思うが侭に成長しているだろうことが見てとれた。ただ ただ、空を求めるようにその腕を伸ばす木々に、圧倒されてしまうと思うの はきっとムウの気のせいではないだろう。
しばらく音もなくその風景を見やり、レイがゆっくりと息を吐きだした。
普段はあまり変化のないレイの表情が、驚いた風でありながらも頬を紅潮さ せ明るいものになっている。無意識ではあるのだろうが、子どものようにきら きらと目を輝かせる様に、ムウはくすりと笑った。
「すごいだろ?」
「……ええ、すごいです。こんなに……」
巧く言葉が紡げないのか、もどかしげにレイは口をつぐむ。その視線は上を 見たり横を見たり木々の向こう側を見たりとせわしなく動いていた。
珍しく落ち着きのないその様子に、レイより一歩離れたところでその様子を見 つめていたらしいラウがくすりと笑う。
「見たいのなら、行ってくるといい」
その言葉に、レイはラウを振り返り、次に困ったようにムウに視線を向けた。勝手 に動き回ることを咎められるとでも思っていたのだろうか、その瞳に微笑み かけ、「行っておいで」と告げるとレイは表情を緩めて頷いた。
望む方へと歩き出し、しかし感極まったのか小走りで木々の間を抜けていく。
レイの後姿を、ラウは目を細めて楽しげに眺め、ムウもまたその姿を追っていた。
あたたかな風が吹き込み、風景が揺れる。舞い上がり、ふわりと落ちる桜の花弁 はとても綺麗だと思うけれどどこかもの悲しいようにも見えて。美しく咲きなが らも、その美しさを保つのではなく散っていく桜。儚いからこそ桜は美しいの だと、以前誰かが云っていたことをふいにムウは思い出した。
「……?」
ぶしつけなほどの視線を感じて振り返ると、ラウの蒼い瞳がこちらを見つめて いた。いつから見られていたのかは定かではないが、視線を逸らさないところを みるとなにか云いたいことでもあるのだろうか。
「どうした?」
ラウの蒼い瞳は違うことなくムウを射る。これほどに真っ直ぐに見られたこと は久し振りではないだろうかとムウはふと思う。
その強さに圧倒されながらも、どうしてか目が離せなかった。だからというわ けではないのだけれど、
「レイがいては不満か?」
ぽつりと零されたその言葉を、理解するまでに数秒かかった。
不満――自分はそんな顔をしていたのだろうか、とムウは思わず考えこむ。
レイがいることを不満に思ったことはない。レイはとてもいい子だし、レイが いるとラウも嬉しそうだし、レイといるのはラウとは違った意味で心地がいい。
だから、不満に思ったことなど一度もなく、けれどこれはむしろ――。
「不満というより、不安、かな」
ざあ、と景色が揺れた。
川のせせらぎにも似た木々の奏でる静かな音が一帯を満たす。
あ、と思ったときには、気づけばムウはすぐ後ろにあった木に背を押しつけられ ていた。先日購入したばかりのシャツの襟元はラウにきつく握られている。なに ごとかと思考が動き出すよりも先に、目の前で金と蒼が揺れた。
唇にあたたかなものが触れ、時間が止まった。それがほんの一瞬のことなのか数 秒間のことなのかわからない。けれど、気づいてみれば全ては終わっていたよ うで、呆然としながらも眼前の蒼を見つめ返すと、どうしてかきつく睨み据えられていて。
透き通る蒼の向こうに、蒼白い炎が揺れる。
怒りにも似たその感情を前に、ムウは言葉を失った。こんな風にラウが自分を見る のは初めてのことだ。いつだってどんなときだってラウはムウに対して平然とした態 度しか見せないで、ムウがなにか文句を云っても笑って流すか一瞥して終わりかそれ くらいの反応しかなくて。だから、ラウがなぜそんな顔で自分を見るのかムウに は見当もつかなかった。
――否。
本当は、見当などつけなくとも最初からわかっていた。ムウの知る誰よりもプラ イドと志の高いラウが、自らの未来を切り売りするような条件と引きかえにムウ とともに暮らすことを選んだ理由。決して言葉にされることのないラウの本 意を、わかっていてあえてああ云ったのだ。
そして、ラウもまたそれがわかったうえでこのような行動に出た。
とんだ茶番だ。自覚はある。それでも、云わずにはいられなかった。……そうし て、その結果がこれだ。
ムウが目を細めて唇の端を上げると、ラウは瞳の強さはそのままにわずかに眉を寄 せる。その苛立ったような色に内心で苦笑すると、再び、今度はゆっくりとラウ の顔が近づいてくる。
触れ合う唇を、ムウは真正面から受け入れる。今だけは決して返すことのない、与え られるだけのキス。
何度もくり返される口づけの合間に、ムウは密かに笑う。
「ラウ――桜が見てる」
しかしラウは、それでも離れることがない。
ラウの後ろに見える、桜の花弁の散る様は儚いけれど潔い。どことない哀愁の他 に、新たな未来を予感させる花だと、ムウはそんな風に思った。
ラウはムウを真っ直ぐに見据えたまま、目を細めた。仕掛けたいたずらに誰かが 嵌るのを待つ子どものように、楽しげに光る瞳に目を奪われ、囚われる。
桜の中で、ラウは笑った。そうして、まるで睦言のように囁くのだ。
「レイに見られるより数倍マシだ」
またレイか、と思わないといえば嘘になる。それでも、つい先刻までのわずかな 焦燥に駆られるような感覚がやってくることはなくて。なんと現金だろう、なん と単純だろう。そうは思っても、これが自分なのだから仕方がないとも思うのだ から本当に仕方がない。
レイが今なにをしているのかはわからない。けれど、ラウがわざわざレイから見 えない位置へとムウを押しやったという時点で全ては明らかだったのかもしれない。
大切な人がいる。大切な人がたくさんいる。けれど、大切だからこそその想いに順 序などつけられるはずがなくて。
他の誰かのことなど気にする必要など元よりなかったのだろう。ムウはラウが好きで、ラウ が大切で、ラウもまたムウを想ってくれている。きっとそれだけで充分なのだ。
改めて気づかされる。その想いがどれほど自分を幸せにしてくれるか。難しいことは なにひとつとして必要ではなくて、目の前にあるその気持ちを大切に育てていくことが なによりも重要なのだろう。
知らなかったわけではない。それはおそらく、信じられないほど穏やかな日々が続くことを当然 のように感じてしまい、忘れかけていただけのこと。
やっぱり、俺は馬鹿だ。言葉に出さずに呟いて、ムウは小さく笑う。眼前のラウがそれに 気づき、悪戯っぽく目を細めるところを見ると、もしかしたら最初からラウには全てお見通し だったのかもしれない。
そう考えると、なんだか今までの自分が本当にただの馬鹿のようで――けれど、そんな 自分を嫌いにはなれないあたり末期だなとムウは思う。
寄せられた唇は甘く優しいまま。しかし身体を離して、再び視線を交わす頃には、きっと自分たちはいつも通りの関係に戻っ ているのだろう。
そうして、互いに大切なあの子に、変わらず微笑みかけるのだろう。
舞い散る桜の中、なにも変わっていないのにけれど確かに変わったなにかを胸に抱きながら。