sweet day


その日は、ムウとラウにとってはいつもと変わらない休日だった。
日曜なので大学に行く必要もなく、さらに運の良いことに2人揃ってバイトも休みとな っており。
久々にラウと過ごせる休日を、ムウが喜ばないわけがなく、かといって特別にする こともないので、2人は一日中部屋でのんびりと過ごすことに決めたのだった。
毛足の長いカーペットに寝そべって、ムウはただごろごろとしながらテレビを見ていた。
つけていたニュース番組では、ちょうど明日に控えたバレンタインについての小さな特集 を組んでいた。
大きなデパートや企業が毎年工夫を凝らして女性客を集めようと気 合を入れるイベントのひとつがバレンタインだ。義理で配るのにもってこいの手ごろ なチョコからいつもならば手が出せないような高級チョコまで、様々なチョコが所狭し と並ぶ画面を眺め、ムウは思わず苦笑する。
「……どうした、ムウ?」
いつものようにソファに座って本を読んでいたラウが、ムウの様子に気付いた のか何気なく顔を上げて首をかしげた。
「ん? いや、こういうの見ると、バレンタインだなーと思うよなって」
期間限定だの数量限定だのという言葉は、普段でもよく聞くものではあるがイベント ごとでの効果は絶大なものとなるらしい。
バレンタインの専用コーナーに殺到する女性たちの姿は、ある意味では微笑ましい ものだと思うのだけれど。
「なんかさ。去年までは、チョコをいくつもらったとか誰にもらったとか、そうい うのをすごく気にしてたかと思うと、妙に不思議な感じなんだよな」
「去年までは?」
少々引っかかる表現にラウが疑問符をつけると、ムウはにやりと笑って上目遣いにラ ウを見る。
「今年はお前がいるしな」
「……チョコレートなどやらんぞ」
ムウの視線の意図をそうだと判断し、ラウはきっぱりと云いきってやったが、ムウ はそれすらも心得ていたように目を細めた。
大体、菓子業界と小売店の陰謀にのせられたようにチョコレートを買いに走れと 、まさかこの自分に云うのだろうかこの男は、とラウが思うのは致し方ないこと といえよう。
けれどムウが告げたのは、ラウの予想とは反するものだった。
「んー。というよりはさ、他のことがあんまり気にならなくなったっていうか 。お前がいればそれでいいって感じでさ」
本当に大切なものがあるかないかという、それだけのことで今までの価値観がが らりと変わっていた。一般論であるだけのそれも、けれど実感を伴うと自分の中で の意味合いもすっかり異なるものとなる。
少なくとも、ムウにとっては。
「……そういうものか」
「うん」
ムウがきっぱり云いきったところで、リビングの隅に置かれた電話が鳴り響く。
普段であればムウが出るか勝手に切れるまで放っておくところだが、どうい うわけか反射的にラウが立ち上がり、受話器を手にとっていた。
ラウの珍しい行動にムウが目を丸くしていたのが視界の端に見てとれたが、タ イミングがよかっただけだと誰にともなく心の中で呟いて、受話器の向こうの声に耳 を傾ける。
そうして聴こえてきた声に、ラウはわずかに眉を寄せた。
「……貴様か。なんの用だ」
『相変わらずつれないな、ラウ。せっかくいい話をもってきてあげたというのに』
「そんなことを頼んだ覚えはない」
棘のあるラウの物言いにムウは一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに相手の想像 がついたのか、呆れたように肩をすくめ、ごく小さく溜息をつく。
電話の相手は、ギルバート・デュランダル。
どうしてこんなときに限って相手がこれなのか。やはり慣れないことはすべ きではないな、と裏目に出た咄嗟の行動にラウが妙な反省をしてるのを知ってか 知らずか、楽しげな口調でギルバートは言葉を続ける。
『つい1時間ほど前のことになるかな。レイが――』


ラウがはっとして顔を上げたのと、玄関のチャイムが鳴ったのはほぼ同時だった。
そのタイミングの良さにラウは目を細める。
「――ああ、今到着したようだ」
ギルバートの返事を待たずに電話を切り、戸惑ったような顔のムウを一瞥するとラウは 玄関へと向かう。
つい先刻までギルバートが云っていたことが正しければ、おそらく玄関の向こうにいる 来訪者は――。
「やあ、久しいな。レイ」
開いた玄関の向こう側では、まさか真っ先に名を呼ばれるとは思わなかったのか、レイが 半ば呆然とラウを見上げていた。
しかしすぐに我に返り、その相手がラウだとわかるとほっとしたように表情を和らげる。
赤くなっているレイの頬にラウの右手を滑らせると、案の定、外気温の低さのために頬はすっか り冷えきっていた。
この寒い中、本当にこの少年はひとりでやってきたのだろうか。駅からここまで歩いた のは、ムウに連れられて初めてこの部屋に来たときだけであるはずなのに。
「寒かったろう。上がりなさい、今ムウに紅茶でも淹れさせるから」
「……ありがとうございます」
冷えた風が部屋に入るのも構わずに扉を大きく開いてレイを部屋に招き入れると、レイ は小さく微笑んで部屋に上がっていく。
状況を察したらしいムウがリビングから顔を覗かせており、レイに手招きをしていた。
「久し振りだな。寒かったろ、今紅茶淹れるけど、レモンとミルクとストレート、どれ がいい?」
ほんの数分前のラウと同じようなことを云いながら、ムウはレイの頭をくしゃりと撫でる。
親戚の子どもにでもするような、馴れ馴れしいまでのその触れ方にレイは一瞬驚いたよ うに目を丸くしていたけれど、ムウの行動に他意がないことを感じとったのかくすぐ ったそうに目を細めた。
「では……ストレートで」
「了解。美味いの淹れてやるからな、もうちょっと待ってろよ」
ぽん、とレイの頭を軽く叩きムウはキッチンへと入っていった。
それを横目に見送ったラウに勧められ、レイは以前この部屋に来たときと同じソファ に身を沈める。ラウがすぐ隣に腰を下ろしたこともあり、小さく吐きだした息には 安堵の色が混じっているように思えた。
「先程、ギルバートから連絡があって驚いた。ここまでひとりでやってきたのか?」
「え……ギルが?」
「ああ。レイがそちらに向かっているだろうから、と」
ラウの言葉に、レイはわずかに視線を彷徨わせると、膝の上に置いた自分の手を見下ろした。
その様子に、先刻のギルバートとの会話を思い出し、ラウは小さく笑みを浮かべ る。なるほど、これでは確かにギルバートも構いたがるはずだ、と。
おそらくレイは、ギルバートには内緒でここに来たつもりだったのだろう。こっ そりと来たつもりが、実は最初からばれていたとなれば気恥ずかしさは倍増する。
レイの気持ちもわからないでもないが、かといって慰めの言葉も思い浮かばない のでラウはレイの頭にそっと触れた。
ムウに撫でられ乱れたままであったそれを整えるように指を通すと、細い金糸はさら さらと指の間をすり抜けていく。
「……それで」
ごく近くで囁かれる言葉に、レイは思わず顔を上げる。
レイの髪を指先に絡めていただけだったはずのラウが、気づけばレイのすぐ目 の前にいて。自分とよく似た、けれどまったく違うようにも見える綺麗な蒼を 前に、レイは胸が高鳴るのを感じていた。
「この寒い中、わざわざこんなところに来るからには、なにかあったのだろう?」
ギルバートはどうやら、ラウに対しレイがここに来ることは伝えても、レ イがなぜここに来ようとしているのかまでは伝えなかったようだ。おそらくは、ギ ルバートなりに気を使ってくれたのだろう。
「お2人に、お渡ししたいものがあって」
決意したようなレイの瞳に、ラウが不思議そうに首をかしげたそのと き、キッチンからムウが顔を出し、揚々とした足取りで戻ってきた。
「紅茶入ったぞ。ラウがレモンで、俺とレイがストレートな」
「……ありがとうございます」
ムウから紅茶のカップを受け取り、レイはまず一口、ゆっくりと口に含む。やわ らかな甘みが身体に染み入って、冷えていた顔が強張りをといていくような気がした。
カップに触れた指先がじん、と熱くなる。けれどそれさえもどこか心地良いような気がして。
自分はきっと、この部屋に流れる、あたたかくて穏やかな時間が好きなのだ、とレイは思う。
――もちろん、ここに暮らす2人のことも。
「俺が今日ここに来たのは、お2人にお渡ししたいものがあったからです」
カップをソーサーに戻し、傍らに置いていたカバンの中からレイは両手のひらに乗 るほどの箱を2つ取りだした。
片方は淡いオレンジの、もう片方は若緑色のラッピングペーパーに包まれたその箱 には、包みよりわずかに濃い同じ色合いのリボンをかけられていて。
市販のものではないそれは、けれど手作りにしては凝った様相だとムウは思った。
レイは片手ずつに手にしたそれを、ムウとラウに差しだした。
「大したものではないのですが……よろしかったら、召し上がってください」
ムウはオレンジの、ラウは若緑色の箱を受け取り、ほぼ同じ流れで渡してくれた相手を見やる。
「これは?」
「……チョコレートです。たくさん作ったので、お2人にも食べていただきたくて」
「レイが作ったのか? すごいな」
こくり、と頷くレイと、しきりに感心するムウと、手元のチョコレートとを見比 べ、ラウは心中でなるほどなと呟いた。
あのギルバートのことだ、おそらくはレイにチョコをねだり、レイはその延長と して自分たちの分まで作ってわざわざ届けにきてくれたのだろう。
せっかくここまで来てくれたというのに、このまま手ぶらで返すの悪いようにラ ウは思った。なにかこちらからも渡せるものはないだろうかと考え、はたと思いつく。
「ラウ?」
カップをソーサーに置き、突然のように立ち上がって寝室に消えていったラウ を、ムウとレイは呆然と見送ることしかできなかった。
なにか彼の気分を害することをしてしまったのだろうかとレイが不安げな顔を浮 かべるより早く、ムウがレイの気を紛らわすように嬉々としてチョコレートの包 装を解きはじめる。
箱の中には、まるで既製品のように整った形のチョコレートが並んでいた。
これが本当に手作りなのかとムウが感動の声を上げていると、いつの間にか寝室 から戻ってきたラウがレイになにかを差し出した。
「……これは?」
「私から君へのプレゼントだ」
ラウがレイに渡したのは、レイがくれたものよりも一回り小さくけれど厚みのある ものだった。上品な濃い茶色の紙にくるまれ、抑えた金の縁取りをされたリボンのつ いたそれは、とある高級洋菓子店で売られているものに酷似していて。
「間に合わせで悪いが、受け取ってもらえるだろうか」
レイの顔をのぞきこむようにして視線を合わせ、ラウは静かに微笑む。
形のみのその問いに、けれどレイは嬉しそうに何度も頷いたのだった。


レイを駅まで送り届けた帰り道、ムウはひとつの疑問を口にした。
「なぁ、ラウ。お前、レイが今日来るってこと、ギルバート・デュランダルから 電話が来るまで知らなかったんだよな?」
「ああ」
だからどうした、とでもいうように一瞥され、ムウは云いにくそうに鼻を掻きな がら「うーん」と唸る。
「……じゃあさ、レイにあげたあのお菓子は、元々は誰にあげるものだったんだ?」
ラウがレイにおかえしとして渡したもの。
もし今日こうやってレイがやってこなかったとしたら、あのプレゼントは一体誰 の手に渡っていたのだろうか、という疑問が先刻からずっとムウの頭にあった。
予期していなかったレイの来訪に合わせてプレゼントを買うことなどはできるは ずがない。だから、あのプレゼントには最初にラウが渡すと決めていた相手がい たはずなのだ。
「あれってもしかして、俺にくれるやつだったんじゃないのか?」
こんな時期にあんなものだ、事実にほんの少しの想像を加えるだけで、その仮定は 驚くほどに確証めいたものとなる。
けれどラウの反応は、常と変わらぬあっさりとしたもので。
「さあな」
小さく曖昧な微笑みを逃がすまいとムウが行く手を塞ごうとすれば、わずかな隙間 をついてラウはムウの問いをすり抜けていく。
「他のことなど気にならなくなったのではないのか?」
くすくすとラウは笑う。
それはごく小さいものであったのだけれど、相手がラウだと考えるとその価値は数倍に 跳ね上がる。
だって、ムウの前にはラウがいて、ラウの前にはムウしかいないのだ。
「――私がいればそれでいいのだろう?」
甘く囁かれる言葉に、ムウは衝動のままラウを抱きしめた。