Nobody
呼ばれている。 誰かに呼ばれているような気がして、私は振り返った。 振り返ったその先には誰もないはずだった。 誰もいない、何もない場所であるはずなのに、しかし男はそこにいた。 見覚えのある男だ。忘れようはずもない男だ。 男は私を見ていた。私は男を見た。 常と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべて、男はそこにいた。 男は小さな子どもの手を引いていた。まだ幼いその子どもを見やり、再び私を見 て、男は笑みを深めた。 子どももまた私を見ていた。 子どもの髪は淡い金の色をしていた。瞳は空の色をしていた。 それはいつか見た、明け方の木漏れ日の色。手の届きそうなほどに近い、空の色。 いつか望んだ、憧れた、既に忘れていたはずの風景の色を持つ子どもは、ただ私を見ていた。 この子どもに覚えがあった。自らの心に問いかけようとし、思考が止まる。 どこで見た。いつこの子どもを見たというのか。記憶を探るも、その中にこの子どもの ような存在はいなかった。 私はこの子どもを知らない。私の中にこの存在はないはずだ。ならばこの子どもは何 者だというのか。 考えられうる理由はある。けれどそれが今のこの状況とどう結びつくというのか。 ――違う。 男は小さく首を傾げた。 ――違う、これは私の子どもではない。 そんなものがあってはならなかった。 私の血を引く者など、存在してはいないはずだ。存在してはいけないのだから。 子どもの瞳が揺れる。子どもは男を見上げた。 男は子どもに笑いかけると、大きな手でその子の頭を撫でた。 子どもはまた私を見た。 男はゆっくりと口を開く。 「そうだ。この子はお前の子じゃない」 男の言葉を聴きながらも、胸の奥では何かがざわついていた。 ならばこの子どもは何だというのか。私によく似た、この小さな子どもは。 「お前の血を引く子どもだなんて、そんなこと、あるわけがないだろう?」 男は笑っていた。邪気のない顔で。 いつもの笑顔が、そこにはあった。 それは何も変わるところがなく、全てが同じであった――はずだった。 「だけどさ。嘘、つくなよ」 ――嘘? 私は、嘘など……。 「ついてるさ。本当は最初からわかってたんだろう? それなのに無視をされたら 、この子はどうなる?」 気づけば子どもはすがるような目で私を見ていた。 今にも泣きだしてしまいそうな表情で。 そんな顔で見てくれるなと、目を逸らしかけた私に、男はさらに投げかけた。 「目を背けるな。ちゃんと見てやれ。この子の気持ちは、お前が一番わかるだろう?」 ――違う。 そんなわけがない。 そんなこと、あるはずがない。 あってはならない。 決して、もうどこにも。 子どもは私を見ていた。 子どもは私を見て笑った。 この笑顔を、冷たい微笑を、私は知っている。 知っていたはずだ。 けれど認められるわけがなかった。 「認めてやればいい。この子どもは――」 ――違う。違う。違う。違う。違う。 子どもは笑っていた。 男は笑っていた。 その瞳に宿る光は暗く澱んでいた。 私は、その光に覚えがあった。 ――子どもは、かつての私と同じ顔をしていた。 「これもまた、『私』であるのだから」 そこに立つ男は、私以外の何者でもなかった。
「――ウ、ラウ!」
呼ばれていた。 目の前にいた男は、私ではなかった。私ではないながら、私にもっ とも近しい男が、そこにはいた。 これが、現実か? 私としてのこの実体が確かにあるというのに、それでもすぐには信じ がたいのはなぜなのだろう。 先刻のあれが、現実ではないという証拠などどこにもない。 あれほどに生々しい、息苦しいものが、本当に現実のものではないというのか。 「ラウ? ……大丈夫か?」 男は――ムウは、至極心配そうな目で私の顔を覗きこんでいた。 熱い身体が外気によって冷えていくのを感じ、私は自分がひどく汗をかいていたことを知る。 「悪い夢でも見たのか?」 ムウの手が頬を撫で、顔にかかる髪を払う。気化熱により体温を奪われた肌に彼のもつ熱は心 地良い。 あたたかなものが身体の奥に満ちていくような感覚さえ覚え、私はやっと今このときが現 実だと知った。 「夢……そうだな、夢だったのかもしれない……」 ゆっくりと息を吐きだす。代わりに冷たい空気が肺を満たし、ようやく 自分の力で呼吸ができるようになった気がする。 冷えた身体が小さく震え、私は上体をずらすとムウの胸に顔を寄せた。 あたたかく、力強い鼓動が聞こえる。 わずかに早まったそれに苦笑し、私は再び眠りに落ちるべく瞳を閉じた。 私と同じように生まれた『私』がこの世に存在するなど、あってはならないことだ。 ――また、同じ悲劇を繰り返そうというのか。 誰にともなく呟くも、これを聞くものはどこにもいないだろう。 ヒトはそれでも進みゆくのだ。愚かでありながら、ときにはそれを自覚し ながら歩き続けていく。 私にこれをいう権利はないだろう。 初めから資格すら持たぬ存在である私なのだから。 それでも、思う。 あの悲劇を、再び繰り返してはならないと。 あたたかな腕の中で、私はそう願わずにはいられなかった。 |