通りを歩く浮かれたカップルたちの様子を横目に、人波に流されるようにラウは岐路を急いだ。 暦の上では春だというのに空気はまだ冷たく、日差しのある日中ならともかく夜になると気温は下がる一方だ。 ビルの間から吹き抜ける風に思わず肩をすくめ眉を寄せた。 視線を適当な店へ向けると、ここ最近見慣れたきついピンク色が目に入る。 そして、そこかしこから聞こえる甲高い声。毎年どうも好きになれない、街中に充満している甘ったるい匂い。さらにここ数日間、特に感じる不特定多数の視線。 一年のうちで、この日ほど意識的に他者を拒絶するような行動をする日はなかった。 自宅マンションに入る直前、駆け寄ってくる見知らぬ女を完全無視してエントランスに滑りこんだ。背後から女が何やら叫んでいたようだが、わざわざ自宅にまで来るような知り合いはまずいないのでとりあう必要はない。 エレベーターに乗りこむと、静かに息を吐きながらマフラーを外す。街の喧騒から離れ、やっとゆっくりできることに安堵する。 が、自宅に一歩足を踏み入れると、何やら覚えのある匂いが玄関まで届いてラウは思わず顔をしかめた。 「あ、おかえり。寒かったろ、何か飲むか?」 リビングから顔を覗かせる同居人に頷き返し、コートを脱いで部屋に上がる。 いそいそとキッチンへと向かう同居人――ムウと入れ違いにリビングに入ると、予想通りの匂いの元がテーブルに広がっていた。様々な色の小奇麗な包みに、けれど覚えのある色形のそれ。 それらを一瞥し、ラウは自室にコートと荷物を置き、適当に着替えると再びリビングへ戻った。 またあの匂いに晒されるのかと思うと気が重いが、冷えた身体を温めたいと思う気持ちの方が幾分か大きかったのだ。 改めて見ると、テーブルの上のチョコの数は大層なもので。 よくそんな気力があるものだと半ば感心しながらソファに腰かけると、真横から手が伸びてきたのでそのまま大人しくカップを受け取った。中身は綺麗な色をした紅茶。チョコとは違う、ほのかに甘い香りが漂って心もち気分が浮上する。 「好きなの食べろよ。お前これなんか好きだろ?」 隣に座ったムウが、適当に並べられた箱の中からいくつかを引き寄せて渡してくる。やはり種類も様々で、どこにでもあるような板チョコからテレビでよく見るような有名菓子店のチョコ、クッキーやケーキといったものまであった。 「……マメだな」 呆れたようなラウの呟きに、ムウは苦笑を返した。 「そりゃ、俺はお前みたいに全部つき返したりはできないさ」 ラウは基本的に、いつであろうと赤の他人から個人的に物を受け取ることはない。普段からそうなのだから、今日という日に浮かれて流されるように渡されるものなど受け取るどころか目に入れる必要すらないと思っている。 けれどそれを知っていながらも毎年のようにチャレンジャーはいるもので。 普通ならば紙袋などを持参するであろう今日、ラウはそれ以上に一日中気を引き締めていなければならなかった。余計な女――たまに男もいたが――を振り落とすには、最初から徹底無視に限ると彼は過去の経験によりよく学習していたからだ。 「でも義理だぜ? 本命らしいのは全部断ったからな」 あと、悪いとは思うけど知り合い以外からの手作りは口にしないし。どれも一応は安全だから安心して食えよ。 その言葉に引っかかるものを感じて、ラウは隣で楽しげにチョコを口に運ぶムウに目を向けた。 視線に気付いたムウと目が合う。何を云いたいのか感じとっただろうムウは、やはり困ったように笑っていた。 「流石に告白付きだと受け取れないっしょ。気持ちだけでもっていうけど、やっぱそれもどうかと思うしな」 片端から断っているこちらからするとわからないがそういうものかと思いながら、箱の中に覚えのある名を見つけてラウはそれを手に取った。 電車だかどこかで女子高生がクッキーが美味しいだのと話していた名だったろうか。甘いものを進んで買うことのない自分には一生縁がないものだと思っていたが、まさかこんなところで出会うことになろうとは。 箱の中に綺麗に並べられたクッキーで目についたものをひとつ口に放り込む。甘いが、後味はすっきりしている。こういうものならまあ悪くないな、と制作者に至極失礼なことを考えながら、ふたつみっつと口に運んでいった。 「……バレンタインだ何だっつっても、欲しいものなんて最初っから決まってるよな」 ふと気付けば真剣味を帯びた声に、ラウはちらりと視線を向けるだけで特に聞きたくもないがとりあえず先を促した。 「欲しいのは、ひとつだけだ。――モノなんかより、もっと確かなもの」 真っ直ぐな瞳がこちらを射る。 この男の目は、初めて会ったときから変わらない。どうしてこんなにも真っ直ぐに人を見るのだろうと何度思ったか知れない。逃げるのを許さぬほどの強さであるのに、一旦逃げに入るとあっさり寛容なまでに見守る方に徹するようで。 嫌いなわけではない。逃げたいわけでもない。 けれど。 「……そうか」 つと視線を落とし、先刻のカップを手に取る。 まだ湯気の立っている紅茶を口に含むが、口の中に残る甘さのせいかわずかな砂糖の味がかき消されていて、茶葉の味だけが広がっていた。 「甘くない」 顔をしかめると、隣でムウがそりゃそうだ、と苦笑するのがわかった。 ふいに抱きしめられ、ムウの服からやはり香る甘い香りに気付いた。 今さらのように、けれどこんな日があってもいいかとこっそり笑う。 そのことを、きっとムウはまだ知らない。 |