それは本当に偶然の一瞬だった。

あの時でなかったら。
あの場所に降り立たなかったら。
あの道を通らなかったら。
あそこで振り返らなかったら。

そうでなければ、きっとあいつには会えなかった。

「よう、久し振りだなぁ!」
わざとらしいくらいの明るい声に、心底嫌そうな顔で男は振り返った。
見知らぬ相手に対する煩わしさからではなく、相手が自分であるからこその反応。
サングラスをかけているその表情はわからないが、それでも彼は真っ直ぐに自分を見ていると感じる。
「……何の用だ、ムウ・ラ・フラガ」
「いや? お茶でもご一緒しませんかと思っただけさ、ラウ・ル・クルーゼ?」
茶化した物言いに、クルーゼはあっさりとフラガに背を向けた。
その背中に迷いは全くなく、むしろ本心だといわんばかりの潔さで、実のところフラガはかなり焦った。
「ちょ、ちょっと待てって!」
小走りで追いかけてやっと腕を掴むと、反射的に払われる。
しかも結構な力で。
まだやる気かと好戦的な雰囲気を纏うクルーゼに、フラガは降参するように両手を顔の横まで上げてひらひらと振ってみせた。
「……相変わらず」
けれどクルーゼの視線の強さは変わらずそのままで。
どうしたものかとフラガは軽く溜息をつく。
「ムウ」
「ん?」
かけられた言葉は常と何の変わりもない静かなもので。
ゆっくりとフラガに背を向ける彼の動きがスローで見える感じがした。

「――来い」

それは多分、ごくごく控えめでけれどとても大胆な誘いの言葉。



「……って、やっぱいねぇし」
予想通りの状況に、愚痴のひとつも零さないわけがない。
「俺に金払えってか?」
空のベッドに向かって深々と溜息をつく。
気だるい身体を妙にすっきりした気分で起こすと、ベッドサイドに視線が向かった。
そこには、それなり以上の価値のある紙が一枚。
例えば、この場を清算するには充分だったりする程度のもので。
自分たちの関係そのものにそんなものは必要ないから、これは純粋な『使用料』なのだろう。
「……用意がいいのは結構だけどねぇ。どうせなら一緒にコーヒーでも飲んでから帰ってくれりゃいいものを」
彼がその場にいたら間違いなく却下されそうな台詞を吐き、フラガは散らばった服を身に着けだした。
薄手のコートを羽織ったとき、右手側の重さが違うように思ってポケットを探る。
右のポケットには、とりあえず自分が今自由にできる金やカードなどを入れてある財布が入っているはずだった。
もちろん、財布自体はあっさりと手の中に納まったのだが。
どこか重さがしっくりこなくて、フラガは慣れた手つきで財布を覗く。
そこには。

「……あのぼったくりが」

すかすかな財布の中身と愛の重さが反比例したらいいとこのときほど思ったことはなかった。




どっかのホテルに連れ込んだんですか?(爆)
……誰が誰を、とか訊かないで……。
元々は百題の7に続くネタだったんだけど、
長くなりそうなんで切って単発に。