窓辺の君と


僕の朝は、ばたばたと騒がしい足音から始まる。
もちろん僕の足音なんかじゃない。
家主であるランディが、朝早くから学校へ行く準備をしているだけだ。
ブカツのために彼はいつもとても早く起きる。
別にそれ自体は構わない。
けれど、どうして朝起きてご飯を食べて身支度を整えるだけなのにあんなにうるさいのだろうと思ってしまうのは仕方ないことだと思う。
本人は静かにしようと心がけているようだけど、下手に気を使うせいで、移動するときに限って無意識にたててしまう足音がさらに大きく聞こえるということに気づいていないのだろうか。
だから大抵、僕はランディが起きたすぐあとには目が覚めているのだけど、やっぱり眠いから彼が出かける直前に僕に声をかけるまではうとうととしている。

「それじゃあセイランさん。行ってきますね」

返事の代わりにしっぽを揺らす。
ランディが家を出て、やっと家の中が静かになった頃に僕はゆっくりと起きだした。
キッチンには、多めのミルクが入ったお皿と、エサの入ったお皿が何枚か。
僕がどれを食べたくなるかわからないから、いくつかのお皿に入ったエサは全て別の種類だ。
今までの主人のように、僕が食べるところに居合わせることがないためにこういった処置をとっているのだけど、彼にしては良い考えだと思う。

いつものように部屋の中で気になるものに触れたりぼんやりしたりして時間を過ごしていたけれど、昼が近くなってなんとなく暇になった。
だから僕は、外に出てみることにした。
ランディは家を出るときは必ず窓を僕がやっと通れるくらいの隙間分開けていく。
その窓からベランダに出て、外の風景を見るのが好きだ。
部屋の中からも空は見えるけれど、もっと下にあるものは見えないから。
かといって、別に下に降りたいわけじゃないんだ。
降りようにも、ここからじゃ足場がないから降りられないし、それに僕の家は――ここだから。

大抵はこの家のベランダから外を見ているけれど、最近の僕にはもうひとつの楽しみ方がある。
隣の家とこの家のベランダを区切っている仕切りの下の部分、そこを通って隣に侵入することだ。
隣室に住む人間も、ランディと同様に昼間は出かけているので、ベランダに少しお邪魔したくらいでは誰も気づかない。
いつも薄いカーテンがかけられたままだから部屋の中はよく見えないけれど、それなりにきちんと整理されているらしいことはわかる。
几帳面な性格の住民なのかもしれない。
そんなことを考えながら、人様のベランダでのんびりとしていたから、いつの間にか現れたそれに気づくのに数秒ほど遅れてしまったようだった。

僕の住む家の隣のさらに隣の部屋のベランダ、仕切りの下の部分からひょっこりと覗いている白。
白の中にある、ふたつの青。

思わず、綺麗だな、と思ってしまったけれど、あえて口に出すことはしなかった。

「……やあ」

こっちを見ているようだったのでなんとなく軽い言葉を返してみたら、無言でこちらにするりと抜けてきたのは全身真っ白な猫だった。








それは僕と同じ猫だったようだ。
見たことのない顔だな、と思ったけれど、よくよく考えてみれば当然のことだ。
僕はここに来てから、ランディ以外の誰かに会ったことがない。
真っ白な猫は、僕のことをじっと見ていた。
僕もそのまま見返していたから、なぜか僕らは自然と見つめ合っていて。
こういうのも面白いかもしれないと思い始めたとき、彼はふいっと部屋の中に目を向けた。

「ここはお前の家か?」
「いや、僕の家はこの隣さ」

彼はそれ以上に関心を持たなかったようで、今度はベランダの外へ視線を移す。
まっさらな空、立ち並ぶ家々、所々に見える緑、道を歩く人。
そんなものを見ているのだろうか。
そういえば僕も、初めてこのベランダに出たときはそうやって色々なものを見ていたことを思いだした。

「僕の名はセイラン。――君は?」

ふと問うてみたけれど、彼は聞いていないのか聞かなかったふりをしているのか、外の風景を見るばかりでこちらに意識を向けようともしない。
そういうのは嫌いじゃないけど。
今は少し、面白くない。
僕は彼にかなりの興味が沸いた。

僕は彼を見ていた。
彼は外を見ていた。

どれだけの間、そうしていたか知れない。
いつだって何かに熱中していると時間を忘れるから、今さら気にはならないけれど。
けれど、それほど長い時間ではなかったような気がする。

どこからか窓を開く音が聞こえ、僕はびくりとした。
振り返ったけれど、このベランダの窓は開いていない。
ランディはまだ帰宅時間ではないはずだし、だとしたら、このさらに隣の家だろうか。

『ラウ?』

僕の予想は当たっていた。
隣の家から聞こえる、困ったような声。

『ラウ、ラーウ』

おそらくは大人の男だろう。
ランディよりも低い声から僕はそう判断した。
僕の目の前の白猫は、けれどやはり無反応で。

『……ったく、どこ行ったんだあいつ』

そう呟いて、声の主は窓を閉めたようだった。
僕の前には、白い猫が何も云わずに佇んでいて。

「ねぇ」

彼の白い尻尾がぴくりと揺れた。

「君が、ラウ?」








ラウと呼ばれた彼はやっぱり答えない。
けれど、彼の名が「ラウ」だというのは間違いないだろう、そう思った。
違うことなら違うとはっきり云うタイプに思えたから。
……どうでもいいことなら完全無視、なんてことも軽くやってのけてそうだけど。

「お前の家は、そこか?」

突然の問いに、おや、と思ったけれど彼――ラウは相変わらず外の風景を眺めていて。
質問の意図が全く読めない。
別に構わないけれど。

「そうだね、僕の家はあそこだ。それはもう決まってしまったことだし、今さらそれを覆す気もなければ逃げる気もないよ」
「諦めたということか」
「諦め? ……ちょっと違うかな。そりゃあ確かに、今の主人を選んだのは僕ではないけれど、僕が僕らしく生きる場所を与えられている、僕にはそれだけで充分だ」

ラウはまた少し尻尾を揺らした。

「君は違うのかい?」

真っ直ぐでとても綺麗な猫。
汚れがついたことなど今までなかったかのように真っ白な毛皮は頻繁に身体を洗ってもらっている証拠だろう。
さらにしっかりとブラッシングまでしてあるところをみると、余程可愛がられているのだろことが容易に想像できて。
ブラッシングのブの字も知らないうちの主人とは大違いだ。
そんな彼が、どうしてそんなことを気にするのだろうか。

「……そうでありたいと望んだわけではない」

ああ、と僕は思った。
そういう感覚は、僕にも覚えがある。

「――なるほど」

意地が悪そうにわざとらしく呟くと、気に触ったのかラウはぴくりと耳を揺らす。
やっとこちらを向いた青に、僕は少しだけ満足した。

「確かに僕らは、野良でない以上は誰かに飼われていることになる。
どんな人間であれ、僕らは飼い主を選ぶことはできない。それは当然だ」

そう、僕の今までの経験からだって断言できる。
いつだって僕らは人間の勝手で主人を住処を生活を変えられてしまう。
望んでも、望まなくても。
――けれど。

「けど、本当にそうかな」








僕らがここにいるのに、きっと意味なんてものはない。
だって全ては僕ら以外の誰かに定められたことで、僕らは飼われている以上それに従うしかないのだ。
あたたかい部屋とたっぷりのミルクを失いたくないのなら。
だからこそ。

「結局は、そういったことは自分で決めるべきことだと思う」
「……」

どういうことだ、と目で訴えかけられているような気がした。
気になるなら聞けばいいのに、と思ったけれど、なんだかそんなところも彼らしいなどと思ってしまっていた。

「だから、それを決めるんだよ」

ラウの横をすり抜けて、僕はベランダの端へと向かった。
外に近付くほどによく見える風景。
いつ見ても変わらない、けれど、いつも全く違うもの。

「僕は、僕でいられるのならどこだっていい。今の生活は今までのものと比べれば多少質は落ちるけれど、退屈しない分だけ面白いと思う。だから僕はここにいるし、僕の家はここなんだ」

君はどう?
言外にそんな想いを漂わせながら、僕は外を見ていた。
眼下を、見慣れない黒い車が駆け抜けていく。
見たことのない滑らかな車体。
こういう車は見たことがある。確かものすごく高いのだとか。
かり、とコンクリートの床を引っかくような音がした。
振り返ってみると、ラウがこちらに背を向けたところで。

「……ラウ?」

一度立ち止まったけれど、彼はもう振り返ることはなかった。
やけにあっさりとしたラストシーンに、僕は呆気にとられてしまったけれど、彼の姿が隣の家のベランダに消える前にはっと我に返った。

「――またね」

云い終わったとき、ちょうどラウの尻尾が向こう側にするりと消えた。


予感がする。
これから、きっと今よりもう少しだけ興味深く面白い日々がやってくる。
そんな、確信にも似たほのかな予感。