君の名は


そのとき、ランディくんは困っていました。
とてもとても、大の苦手な数学の抜き打ちテストで20点を取れないと放課後補習をすると云われたときくらい困っていました。
(ランディくんは放課後の部活の時間が大好きで、補習になると部活を休まなくてはならないので大変困るのです)
目の前にはランディくんが尊敬しているオスカー先輩の笑顔。
少し視線を下げると、先輩の腕の中にいる可愛らしい蒼い猫の姿。

「それじゃあ頼んだからな、ランディ」
「で、でもオレ、アパートに一人暮らしでっ」
「お前のアパートはペット禁止じゃないだろ? それに、お前は奨学金と仕送りとバイトで生活費の心配はほとんどないしな。こいつにかかった金は後でまとめて請求してくれ。まぁ何かあったときには……そうだな、オリヴィエにでも連絡すればどうにかできるように手配はしておくから。な?」

女の子であれば舞い上がって喜ぶほどの先輩の笑顔であっても、そのときのランディくんにはそうは見えませんでした。

「先輩っ」
「――ランディ」

突然真剣な目になるオスカー先輩に、ランディくんは反射的に姿勢を正していました。

「お前を信頼できると思うからこそ、俺は可愛いこいつを誰でもないお前に預けるんだぜ?」
「……はぁ」
「ってなわけだ。俺が帰ってくるまで……まぁいつになるかわからんが、よろしくな、ランディ!」
「ちょ、ちょっと先輩っ! オスカー先輩ー!」

猫をランディくんに渡し、爽やかな笑顔で去っていくオスカー先輩をランディくんは必死で呼び止めましたが、もう先輩はそこにはいませんでした。
残ったのは、呆然と立ちつくすランディくんとその腕の中で呑気に毛づくろいをする仔猫のセイラン。
オスカー先輩はランディくんより二つ年上で、今は大学の2年生です。
常々世界中を飛び回りたいと云っていたオスカー先輩は、高校在学中からバイトをしてお金を貯めて、つい先日やっと目標金額にたどり着いたのですがここで問題がひとつ。
ごく最近譲られた猫(おそらく女の人に頼まれて断りきれなかったのだろうというのがランディくんの予想です)を、どうするか。
世界中を回るわけですから猫同伴なんて無理ですし、人に譲られたしかも生き物をその辺に捨てるなんてもってのほか。
ならばと預け先にオスカー先輩が選んだのが、誠実な後輩のランディくんだったのです。
(ちなみにオリヴィエというのは同じくランディくんの先輩で、オスカー先輩の悪友です。オスカー先輩曰く、彼の住むマンションはペット厳禁だったそうです)
ランディくんの実家では犬を飼っていますが、猫を飼うのは初めてです。
しかも今は一人暮らしで、家の近所には知り合いはいません。
餌さえやればあとは勝手にしている大人しい猫だとは云われましたが、やはりランディくんは戸惑ってしまいます。

「……大丈夫かなぁ、オレ」

ぴくり、と耳を動かしてセイランがランディくんを見上げました。
吸い込まれそうな蒼い瞳にランディくんは思わずどきっとします。
けれどその瞳が一瞬だけ悲しそうに光ったように見えて、ランディくんは気付きました。
この子だって、いきなり環境が変わるんだからきっと不安なんだ、と。
しかもまだ仔猫なのに、これまでに何度も環境が変わっているのだからなおさらのことです。

「オレだけじゃ、ないよな」

ひとりじゃない。
その言葉は、ランディくんの胸をぽっとあたたかくしました。

「これから、一緒に頑張ろうな」

顔の高さまでセイランを抱き上げて、ランディくんはにっこりと笑いました。
セイランは返事の代わりなのか、ぱたりと尻尾を揺らしました。


彼らの生活は、こうして始まったのです。








帰宅したランディくんは玄関にどさりと荷物を置くと深く息を吐き出しました。

「けっこう重かったなぁ……」

ドアの音か荷物を置いた音か、それともランディくんの声かのどれに反応したのかはわかりませんが、部屋の中から顔を覗かせたセイランがゆっくりとランディ君の方に近付いてきました。
ランディくんが置いた荷物を探ろうとして袋の中に顔を突っ込んだセイランを抱き上げ、ランディは靴を脱ぐと荷物をちゃんと部屋の中へと運んでいきました。
セイランは少しだけ暴れていたようですが、すぐに下ろされると興味深そうに袋を眺めていました。

「お腹空いてるよな、今餌を開けるから」

オスカー先輩からセイランを預かったランディくんは、一旦家へ戻って近所のペットショップへと向かい、猫を飼うために必要なものを買いに行ったのです。
その間、セイランは静かに家で待っていてくれたようです。
大人しい猫でよかった、とランディくんは部屋を見回してほっとしました。
ペットショップのロゴが入った袋から取り出すのは、店員に選んでもらった猫用のトイレと、オスカー先輩からもらったメモにあった、セイランの好きな餌が数種類。
こんなにいろんな種類を食べるのだろうか、とランディくんは不思議に思いましたが、オスカー先輩からそういった指示があったのでそれに従って買ってきたのです。
セイランがじっと見上げているのに気付いたランディくんは、早速一番手前にあったキャットフードを取り上げました。
キッチンからお皿を持ってきて、キャットフードを入れてやるとセイランの前に置きます。
が、セイランは食べようとしません。
しばらくは匂いをかいだりと興味を持っていたようですが、飽きたのかそれともお腹が空いていないのか、くるりとキャットフードに背を向けてしまいました。

「ち、ちょっと待って!」

ランディくんの声に、セイランは足を止めて振り返りました。
けれど、なぜかランディくんは固まってしまいます。
引き止めてどうするんだろう、オレ……とランディくんはぐるぐると考えこんでいました。
そんなランディくんを、セイランはじっと見つめていました。
そのときランディくんは、オスカー先輩の言葉を思い出していました。

『こいつ今朝はあまり食べなかったから、家に着いたら何か食べさせてやってくれ』

確かにオスカー先輩はそう云いました。
だから、セイランは今きっとお腹が空いているはずで。
でも、キャットフードは食べようとしなくて。
……だったら、どうすればいい?

ランディくんの思考はそこで止まってしまいました。
セイランの尻尾がぱたりと揺れました。


どちらともなく、これからどうなるんだろうと思ったなんて、今は誰も知りません。








しばらくセイランとの無言の攻防をしていたランディくんでしたが、妙に耳につく時計の秒針の音にはっと我に返ると、ちょっと視線を彷徨わせてまたセイランを見ました。
セイランはただランディくんを見ています。

「……えっと……」

何か云ってくれないかな、とランディくんは思ってしまいましたが、セイランは猫なので喋ることなどできません。
そんなことは当たり前なのですが、このセイランはどうも人間よりも瞳の力が強いようで、いきなり話しだしてもおかしくないように感じるのです。

「せ、せめてミルクくらいは飲みませんか?」

なぜいきなり敬語になったのか、実はランディくんにもよくわかっていません。
ただ、どうしてかこの小さな猫の前だとどうも緊張してしまうのです。
セイランはまたしばらくランディくんを見つめていました。
ランディくんも、じっとセイランの返答を待ちました。

「……セ、セイラン……さん?」

ふいにセイランが動き出しました。
ランディくんは慌てて後を追うように立ち上がりますが、セイランは気にせずにその横を通り過ぎます。
セイランのためのエサが広げられたテーブルまでやってくると、セイランは軽い身のこなしでその上に飛び乗りました。
テーブルはランディくんの膝の高さほどあり、仔猫のセイランにはかなり高いはずなのですが、そんな様子をセイランは微塵も見せません。
テーブルの上のセイランは、エサの上に乗せられた空のビニール袋に顔を突っこんでいました。

「セイランさん、ちょっと待って」

何かを探しているのだろうか、とランディくんが袋をどかしてやると、下から出てきたいくつものエサのうち、ひとつの缶詰にセイランは興味を示したようでした。
缶詰を鼻先で押すようにしているセイランに気づいたランディくんは、その缶をひょいっと取りあげました。
するとセイランは缶を追うようにランディくんを見上げます。

「……これが食べたかったんですか?」

何の反応もないことを今回は肯定と受けとめ、ランディくんはキッチンから缶切りとお皿を持ってくると、缶詰を開けてお皿に移してやりました。
するとどうでしょう。
キャットフードには見向きもしなかったセイランが、黙々と缶のエサを食べ始めたではないですか。
その様子を見ながら、ランディくんはオスカー先輩から貰ったメモに、追記のように書かれた部分があったことを思いだしました。

『その日の気分によって食べるエサが異なるので、エサは臨機応変に与えること』

メモを取りだし目の前のセイランと見比べて、ランディくんは軽く溜息をつきました。

「……こういうことですか、オスカー先輩……」

これからうまくやっていけるだろうかとかなり不安になりながら、ランディくんは美味しそうにエサを食べるセイランの頭をほんの少し撫でました。