君の名は


それは、ムウさんが仕事から帰る途中のことでした。
その日ムウさんは定時に仕事を終え、その後食事や飲みに誘われも誘いもしなかったので、のんびりと駅前のスーパーで買い物をして家までの道を歩いていました。
(ちなみに恋人もいませんのでデートの予定なんかも入っていません)
そのときです。
電信柱の陰で何かが動いたような気がして、ムウさんは足を止めました。

「……?」

近寄って覗いてみると、そこには薄汚れた小さな塊がありました。
足元にあった小枝でつついてみると、その塊は押されてごろんと転がりました。
そしてひょっこりと覗く三角形が二つ。

「……猫?」

ムウさんの思った通り、どうやらそこにいたのは猫だったようです。
死んでいるのだろうかと思い、ムウさんはおそるおそる猫に手を伸ばしました。
小さな身体はまだあたたかく、心臓も動いているようでした。

「生きてる……」

ムウさんは慌てて猫を抱き上げました。
まだまだ小さい仔猫で、大きさはムウさんの両手を軽く開いてすっぽり収まるくらいです。
よく見てみると、仔猫の首には細い首輪がしてありました。
身体と同様に首輪もボロボロでしたが、ムウさんは首輪につけてある金属のプレートを見つけました。
そこには何か文字のようなものが刻まれているようです。

「名前…?」

プレートも傷だらけでしたが、かろうじて文字に見えないこともない線を、ムウさんは必死で追ってみました。

「R、A…W…W……ラ、ウ?」

そのとき、手の中の仔猫がぴくりと動きました。

「ラウ? お前、ラウっていうのか?」

仔猫はそれ以上動きませんでしたが、返事の代わりにか細く「みゃー」と鳴く声が聞こえた気がしました。

「とにかく、暖めて何か餌やらないとな」

ここまできて放っておけないのがムウさんです。
猫用のトイレや餌といった必要なものを買ってきたり、飼い主を探すなどやるべきことはたくさんあります。
けど、と手の中の仔猫の頭を指先で撫でて、ムウさんは思いました。
とりあえずは仔猫――ラウが元気になるのが先だ、と。


2人――いえいえ、1人と1匹はこうして運命的に出会うことになったのです。








仕事からの帰り道、道端でぼろぼろになった仔猫・ラウを拾ったムウさんは、家に帰って早速ラウを綺麗にしてやることにしました。
お風呂場まで行って洗うほどラウは大きくなかったので、ミルクを温めている間にここでざっと洗ってしまおうと思い、ムウさんは台所に立ちました。
流石に頭からお湯をかぶせるのは可哀想だと思ったので、深いお皿にお湯を張り、顔にお湯がかからないよう支えながらラウの身体をお皿に横たえました。
身体の半分ほどしかひたりませんが、それまでぐったりとしていたラウが、お湯に触れた途端にぴくりと動きました。

「大丈夫だぞ、ちょーっと洗うだけだからな」

猫は水を嫌がるといいますが、ラウはほとんど嫌がるそぶりをみせません。
身体を石鹸の泡で洗い、顔の部分は濡らしたタオルで拭いてやりながら、ムウさんは少し驚いていました。
ラウは、実は真っ白な毛色だったのです。
どうやら、ホコリや泥にまみれたせいで汚れた灰色になっていただけだったようです。
軽く洗っただけなのでまだ少し汚れは残っていますが、それでもこれほど白かったのかとムウさんは感心するばかりです。

「お前、実はどっかの血統書付きとかじゃないよな?」

そんなことをいいながら、ムウさんはきちんと水分が取れるまで拭いてやりました。
綺麗になったラウをテーブルまで運んでやったら、次はご飯の準備です。
いったん温めてからぬるくなるまで冷ましたミルクを浅いお皿に注ぎ、細かくちぎったパンも用意してやります。
ラウと同じようにテーブルの上に置くと、ラウはミルクの匂いにつられてかゆっくりと目を開けました。

「ほら、お腹空いてんだろ? ちゃんと食べろよ?」

けれど、ラウはじっとしたまま動きません。
真っ白な顔と、まあるい青い瞳は目の前のミルクのお皿を見つめているだけでした。
ムウさんが見つけたときのラウの様子だと、かなりの日数を屋外で暮らしていたように思えたのですが、勘違いだったろうかとムウさんは首を傾げます。
あれほどまでにぼろぼろで衰弱しきっていたのですから、きっとまともなご飯は食べていないはずだろうと思ったのに。
けれど、とムウさんは思いなおしました。

「もしかしてお前、マジで今まで何にも食ってなかったのか?」

人間でも、何日も食事をとらないでいたり食事の量が少なかったりすると胃が小さくなって、食べようと思っても食べられないということがあります。
もしかしたら今のラウも同じ状況なのかもしれない、とフラガさんは小さく溜息をつきました。

「だったらパンは無理か……。なぁラウ、せめてミルクくらいは飲めよ。別に毒なんか入っちゃいないからさ」

けれど、ラウはやはり動かないまま、ミルクのお皿を見つめているだけでした。
こうなってしまっては、ムウさんにはどうすることもできません。
哺乳瓶でミルクを与えるほど小さい猫ではありませんし(そもそもここに哺乳瓶なんてものはないですし)、無理矢理飲ませてもきっと効果はありません。
ラウが自分から飲んでくれなければ、意味がないのです。

「……お前のために云ってるのにな……?」

ふと、ムウさんは思いました。
もしラウが、何も食べられないほどに衰弱しきっていたらどうしよう。
ラウは目に見えて弱っていますから、これ以上何も食べないでいては死んでしまうのは当然です。
こんな小さな身体ですから、少しのことでもすぐに死んでしまうことは容易に想像できて。
急に不安になったムウさんは、ラウの頭をゆっくりと撫でてやりながら云いました。

「なぁ、頼むよ。一口だけでもいいからさ……」

ムウさんが撫でるのをやめたとき、ラウはちょっとだけ視線を上げてムウさんをじっと見つめました。
その目を、ムウさんも思わず見返して、1人と1匹は自然と見つめ合ってしまいました。
どうしてそうなったのか、ムウさんにはわかりません。
撫でられるのが嫌だったのか、それとも撫でられて気持ちが良かったのか。
もしかしたら気持ちが通じたのかもと淡い期待を持ちながら、けれど想いをもっと伝えるように、ムウさんはラウの瞳を覗きみむように見つめていました。
海のようにまっさらな青が、ただムウさんだけを見上げていました。
――それが何秒か何分後だったかはわかりません。
ふいにラウは視線をムウさんからミルクのお皿の方に戻し、少しだけ首を伸ばすとちろちろとミルクを舐め始めました。

「――やっ…た」

ゆっくりとではありますが、確かにラウはミルクを舐めています。
ムウさんの手のひらほどの大きさのお皿に、小さな波紋が広がるのを認めたムウさんは、嬉しくなって思わずラウの頭をまた撫でてしまいました。

 みゃっ

折角の食事を邪魔されたラウが迷うことなくムウさんへ反撃をし、ムウさんのわずかな叫びが台所に響くのは、この直後の話――。








ムウさんがお皿に入れてやったミルクを半分ほど飲んで満足したらしいラウは、舐めるのをやめてちろりとムウさんを見上げました。
ラウの青い瞳にムウさんがどきりとしたとき、ラウが小さくみゃーと鳴きました。
その声に我に返ったムウさんは、慌ててバスルームからタオルを持ってくると、それにラウをくるんでやりました。
しばらく、ラウは所在なさげに視線を彷徨わせていましたが、お腹がいっぱいでさらに柔らかな毛布があたたかく気持ちが良かったのか、うとうととし始めました。
ラウの目がゆっくりと閉じていく様子を、ムウさんは静かにじっと見守っていました。

ラウが寝入った頃、ムウさんはキッチンに置きっ放しだったラウがしていた首輪のことを思い出し、それを取ってきました。
首輪についている金属のプレートの汚れを落として、少しだけ磨いてみると、見えにくかった文字がだんだんとはっきり読めるようになってきます。
上の方に細かい字、下の方に少しだけ大きめの字が書いてあるようです。

「R、A、W、W……だな。やっぱ『ラウ』か」

下の字は最初にムウさんが読んだとおり『RAWW』と書いてあったようです。
けれど、おそらくラウの飼い主の名や住んでいた場所のことが書かれていたであろう上の字は小さすぎるためか潰れてしまって読めません。

「お前、ホントにどっから来たんだ?」

ぽつりと零してみせますが、眠っているラウに聞こえるはずがありません。
ムウさんは小さく溜息をつくと軽く頭を掻きました。
道端で倒れていたラウを思わず連れ帰ったはいいものの、実のところムウさんにはラウを飼う気はなかったのです。
ムウさんは軍人です。
しかも、大尉というほどの地位にいますから、どちらかというと公務員に近い一般兵に比べればかなり不規則な生活になりがちなのです。
そんな風に、毎日の帰宅時間も定まらない状態で、仔猫など満足に飼えるはずもありません。
だから、とムウさんは思いました。

「……明日、迷い猫の届けを出してくるからな?」

ネームプレートまでついている首輪をしていたのですから、ラウが誰かの飼い猫である可能性は大いにあります。
事情などはわかりませんが、もし本当の飼い主がラウを探してるのだとしたら、ラウは本当の飼い主の元へ帰るべきだとムウさんは思うのです。

「ちゃんと世話もしてやれないけど、今だけ我慢してくれよな」

綺麗に洗ったお陰か、ラウの真っ白な毛はふわふわになっています。
そしてタオルからひょっこりのぞくこれまた真っ白な頭をムウさんは指先で優しくなでました。


その顔に浮かぶ穏やかな笑みに、気付かないのは本人ばかり。