「――帰る場所はないのだろう?」
彼はそう云ってレイのバッグを手に立ち上がった。
それだけだった。






   “少しだけ、優しくなれた”






いつからか、朝食をつくることがレイの日課になった。

「レイ、高校はどうする」
「やめます」
「……そうか」

だって高校はこの家から通えるような距離ではないし、ここまできてまたラウから離れるなんて考 えてもいなかったし。
それに、

「アルバイトをしながら勉強をして、大検を受けようと思います」

今は学校へ行くより世界を知りたい。レイはそう考えていた。
確かに、ラウの負担になりたくないとか、ラウに少しでも近付きたいとか、そう いったことを考えていないといえば嘘になる。けれど、レイにとっては高校へ行 くより、今はもっと外の世界を知りたいと思うから。
優先順位が決まっていれ ば、あとはおのずと道筋も決まっていく。
とはいえ、大学には行きたいと思うから、勉強はする。やろうと思えば勉強な どどこででもできるのだ。本人の努力と能力次第で。
レイはそれができると確信していたし、それができるだけの能力があると知って もいた。もちろん、油断をする気もない。

「……そうか」

ラウの目元が、少しだけ優しくなる。
ラウがレイの将来の心配をしてくれている。たったそれだけのことであ るのに、レイは嬉しくて仕方がなくなる。
ラウはそれを知らない。レイはそれを伝えはしない。

「シンの店のオーナーに紹介していただいたお店に、来週面接に伺う ことになっています」
「シンの……そうか、あのオーナーの紹介ならば問題はないだろうな」
「オーナーをご存知なのですか?」

こうやって話をすることで、知るはずのなかったあなたを知ることができる。

「ああ。あの店では、あらかじめ予約をしておけば、社内に限り昼休みにランチ セットを届けてくれるサービスがあるらしい。同僚があの店を気に入っていて、私 もそのついでに何度か頼んだことがあるからな」

だから、オーナーの顔は知っているのだとラウは云う。もしかしたら、意外 とあの店を気に入っているのかもしれないとレイは思った。
ならば――と思いかけて、しかしその先の考えを遮断させた。考えても詮無きこ とだ。今がここにあるというのに、後悔をしてどうなるという。過去を振り返 ることは大切だが、過去に縛られてはいけない。
ラウはレイがここにいることを赦してくれた。
レイにとっては、なによりも、それが一番大切なことなのだから。



こんな些細な会話のひとつひとつが、レイとラウの生活を繋いでいる 重要なパイプラインで。
たったそれだけのことなのに、ラウと交わせることが嬉しいとレイは感じる。

今後、レイがどうなるかなどレイ自身にさえわかることではない。絶対の約束な どできるはずもないけれど、けれど自分は、なにも云わずにラウから離れたりしな いと、今は確かに誓いたい。






未来など、誰にもわかるはずがない。
もしかしたら、レイもまたいつかのように突然に消えてしまうのかもしれない し、レイはそうならないかもしれない。
「二度あることは三度ある」というけれど、「三度目の正直」ともいうのだから。

過去ばかりを意識して、未来に背を向けていてもなにも変わらない。わかって いたことだ。自分ではわかっていたつもりのことだった。――しかし、それを改めて教 えてくれたのが、レイだった。

ラウは思う。
例え誰かがそれを真実だと告げたとしても、自分の目に見えないものなどは、信 じることも期待することもできないけれど。
しかし目に見えるものならば、確かにこの手の中にあるものならば、それは信じて も良いのではないだろうか。かつてそうであったころのように。

望みなどはない。求めるものなどはない。ただ今は、目の前にいるこの少年が心穏 やかに過ごすことができるようにと――そのためにあろうと、ラウは思うのみだった。




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(2006/05/31)