認めない。認められない。認められるはずがない。
けれど、……それでも。






   “新しい私を見つける”






ラウが手帳を開くのをみとめて、レイは目の前の食事に意識を集中させた。
野菜スープを口に運び続け、半分ほど飲んだところでお粥にも手を伸ばしてみるが、 ひと口含んで断念する。ものを食べることならばできそうだが、スープを飲んでいたためか お粥さえ食べきる気が起きなかった。ならば今は、ラウの云ったようにスープだけでも飲んで しまおう。そう思った。
ここ数日まともに食事をしていなかったせいか、スープの温かさは胃に染み入るよう だった。……味は、よくわからないのだけれど。
そうして部屋には、レイがスープを掬う際に食器同士が触れ合ってたてる音と、 その合間にラウが手帳をめくる音のみがひそかに響くことになった。
初夏の熱に満ちた外界とは切り離された涼しく静かな空間に、レイは求め続けた人と 共にいる。もう充分だと思えた。これ以上なにを望むことができるだろう。
決してともには在ることがないと思えたこの人は、しかし確かにレイの前にいる。これから も――などと、叶うはずがないことなど初めからわかりきっていた。だからこそ、最後に 伝えなければならないことがあるのだ。
ラウはただ静かに手帳を読み続けていた。その表情は変わることがなく、彼がなにを 考えているかなどレイにはわかろうはずもない。
レイは膝の上にあったトレイを持ち上げ、脇へと置いた。零してしまうことがないよう、 布団をめくってスペースを空けてから。そして、身体の向きを変えてラウへと少しずつ 近付いていった。ベッドの三分の一ほどのところで止まって体勢を戻し、今度はただ ラウを見つめる。ラウはレイの動きに気づいていないようだった。
熱心な様子はなく、かといって軽い気持ちではないだろう硬い表情で、ラウは手帳の ページをめくり続けていた。
けれどふいに、ページをめくろうとしたラウの手が止まった。それまで機械的に動いていた 手が数秒停止し、そうしてからゆっくりとラウの視線は次のページへと移っていった。
その動きと、わずかに見開かれたラウの目と、ラウが読んだ分のページの厚みから、 レイはそれがどの箇所なのかを悟ることができた。
それはレイ自身も幾度となく読み返してきたところだ。冬のある日のこと。毎年必ず、 決して忘れられることなく、しかしレイの知らぬ間に母の想いが綴られていた日。
「――……その日になると、母は必ずケーキを買ってきました」
ラウは視線を上げることなく、続くページをめくっていった。レイもまた、構わずに 話を続けていく。
「ごく普通のケーキです。数は4つ。それだけは毎年変わらず、けれど理由を訊いても 母は微笑むのみでなにも教えてはくれませんでした」
母子2人の生活であるのに、箱の中に並ぶケーキは4つだった。なんの記念日でもないはず なのに、毎年同じ日にレイの家の食卓にはケーキが並ぶ。
これでなにもないはずがない。けれど、母はなにも云おうとはしなかった。
その理由を、想像することはできた。――その一部が事実と確認できたのは、ほん の数ヶ月前のことであったけれど。
「でも、母が死んで、その手帳を見つけて俺は初めて知りました。……あの日は、 あなたの誕生日だったのですね」
ふ、と。ラウがようやく視線を手帳から離したとき、気づいたレイはラウの顔をわずかに高い位置から 覗き込んで微笑んだ。
それは、母の手帳を見なければ知るはずのなかった事実。自分に血の繋がった兄がいたと いうこと。そして、その日が兄の誕生日だということ。
母の手帳に、兄の名前は滅多に書かれることがない。けれど、その内容から 今は遠くにいる兄へあてたものだと判別できる記述は多くあって。
語りかけるように、密かに求めるようにしながら、母は誰も知らない手帳に 兄への想いを綴っていた。
「あなたの存在を知って、嬉しいと思いました。一人きりになってしまったと思って いた俺に、まさか実の兄弟がいるなんて考えてもいなかったから。けれど、」
一端切って、レイはラウを見据えた。ラウは再び手帳に視線を落としていた。
「――……正直に話します」
これは、本来ならば伝えるはずのなかったこと。こんなことを云って、嫌われてしまう ことをレイは恐れていたから。
けれど、今はこれを伝えなければならないと思った。なぜ かは自分でもよくわからない。ただ、これを伝えなければ前に進めないのだと、 思っただけだ――自分も、彼も。
「その手帳を初めて読んだとき、俺はあなたが大嫌いでした。兄弟がいたということは、 驚いたし嬉しいと思った。けれど、母の綴る文章の中にいたあなたのことが、俺は 嫌いだった」
そこで初めて、ラウは視線を上げた。
真っ直ぐに自分に向かう瞳を正面からレイは受けとめる。ここで離してはいけないと 思った。伝えたいことが、伝えなければならないことが、自分にはあるのだから。だって、
「だってそこにいたのはあなただから」
その中にラウの名が出てくるのはほんの数度きり。けれど、ラウを想う母の心は察することが できた。母がどれほどにラウを父を愛していたか、どんな想いで彼らの元を離れたのか、 そして、なにも云わずにラウを置いてきてしまった苦悩もまた、そこには書かれていたから。
「俺は、思ってしまったんです。もしかしたら、俺が母さんに愛されていたのは あなたと俺を重ねていたからではないか、と。あなたがいなければ俺は愛されて いなかったのかもしれない、そんなことを」
そんなことはありえないと、確かにわかってはいたのだけれど。
「確かめようにもそれを問える相手はどこにもいなくて……あの頃は、やりきれなく て、本当に悔しかった。憎らしいとさえ思った」
ひとりきりになってしまって。
手を差し伸ばしてくれる人はいたけれど、それでも 自分はひとりきりで。
「でも、冷静になって読み返して、気付いたんです。俺はあなたの代わりに愛され た。あなたがいなければ、俺はあれほどに愛されることはなかったのかもしれない。で も、それでも母さんは確かに俺を愛していてくれたのだと」
母の笑顔は偽りではなかった。決して裕福とはいえないものの、あのやさしい日々は 確かに自分の前にあった。あの中にいたのは、誰でもない自分と母だけだった。
――だから、ラウに逢いたいと思ったのだ。
あれほどまでに母が愛した人に、レイのただひとりの兄に。そうして伝えたかった。あなたは 確かに母に愛されていたのだと。あなたがこうしてここにいることに、俺は感謝している のだと。
ラウの苦しみを、痛みを、レイが知るはずはない。ラウにとっては嫌味ともとれる 言葉かもしれない。けれどレイは確かに思うのだ。
「あなたに逢えて、良かった」
今のレイが、ラウに伝えたいことは本当はひとつだけ。
「悩みもした。迷いもした。それでも俺はあなたに逢った。そして 思った。――俺はあなたが好きだと」
ラウはレイを見つめていた。レイはラウを見つめていた。
「あなたはどうですか、ラウ?」




本当は、最初からなにもかもわかっていたのかもしれない。
この少年が――レイが、なんの陰もなくここにいるという、それだけで得られる事実は 推測ながら決して微細なものではなかったのだから。
レイは今年で16歳になるという。ほんの少し意識すればわかることだった。レイは確かに 自分と同じ血を受け継いでいると。母が家から姿を消したとき、母の腹の中には レイがいたのだろう。もしかしたらそのときの母も気づいていなかったのかもしれない。そ して母は、ラウの知らぬ土地でひとりレイを産み、慈しんで育てた。――ラウを捨てた 罪滅ぼしのように。
そして、レイが『普通に』育っていたということは、母は逃げも隠れもしていなかったという こと。
だから父は母を捜し出せたはずだった。いや、あの父が母を捜さないはずがなかった。草の 根を分けてでも探し出し、力任せに連れ帰すことができたはずなのだ、父の力を使った なら。けれど、母が家に帰ってくることはなかった。
そこに真実がある。それは身勝手で傲慢で最低な父の、母への最後の愛。
そしておそらく母もそれを知っていたのだろう。――だからケーキは4つだった。
だが、そんなもの。
認めない、と思った。認められない、と思った。認めたくない、と思った。父は最期のとき まで母を愛していたけれど、自分は捨てられた子どもに変わりはないのだと。
捨てておいて、なんの便りも寄越さずに、それでいて今さら愛していたなどと 笑わせてくれたものだ。どれほどに願おうと、望もうと、なにひとつとして手の中に 戻ることはなかった今となって、そんな馬鹿げた話があるものか。
けれど、……それでも。
「あなたのことが、俺は嫌いだった」
呟くようなレイの言葉は、俯いたままのラウの視線を上げるに充分なものだった。
初めてラウの前に現れたときから、レイはラウ自身に対してなにがしかを口にすることが なかった。唯一「嫌いにならないでほしい」という望みを告げたのみで、彼がラウへと抱く 感情を知ったのは今日が初めてのことだった。
だから、驚いた。そして、心のどこかで安堵もした。
――美しいばかりの感情ではないのだ。
憎むこともまた当然の感情であり、しかしそれだけで終わることがないのも人間だ。かつて ラウを嫌いだったというレイは、ここで逢ったラウを好きだという。彼とて聖人君子では ない。哀れみでも同情でも憎しみでもなく、ただあるがままのラウを見て彼は決めた と、たったそれだけのこと。
自分もまた、同じではないにしろ似たようなものではないのだろうかと、ラウは内心で 自嘲する。
母の真意が、断片ではあれわかったとて、母を素直に赦せるほど自分は子どもではないし、単 純でもない。
しかし、今こうやてここにいるレイのことはどうなのだろう。過去はどう あれ、立場はどうあれ、それでもレイのことは嫌いになれないのだと、ラウには 自覚するより他になかった。
「あなたはどうですか、ラウ?」
……その言葉がスイッチであったのか、それともただの偶然だったのかは知らない。
ふいに風景が揺らぎ、ラウは目を瞬かせた。目の周りがじわりと熱い。なにかが 溢れて零れようとしているのだと気づいたとき、ラウの視界は暗転した。
人の腕の中にいると気づくのに時間はかからなかった。視界いっぱいの水色は、ラウも 見慣れた入院患者用のそれに他ならず、けれどラウはそれから抗う術をもたない。
このぬくもりは遠く、もう二度と触れることのないものだと思っていた。
なのに、
「なぜ君はここにいる」
再度問うたラウに、レイはわずかに肩を引くとごくごく近い距離からラウの瞳を真っ直ぐに 見据え、確かめるように口を開いた。
「――あなただからです」
その瞳に嘘はない。
「君も大概バカだな」
ラウもまた、自分によく似た瞳に思うままに返して少しばかり唇の端を持ち上げると、レイは 嬉しそうに、ただただ嬉しそうに微笑んで――再び包まれたやさしい感触に、ラウ はゆっくりと目を閉じた。




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(2006/05/29)