現実のような夢 夢のような現実 より痛いのは、どちらだろう “いつもここにある真実に” その声を聞いたのは、午後の業務を終えたラウが会社の敷地に足を踏み入れたときの ことだった。 「レイ……!」 知らぬ少年の、けれど知った名前を呼ぶ声。 反射的にそちらに目を向けると、会社前の広場の隅に彼らはいた。 手にしたものを放り投げて慌てたように駆ける黒い髪の少年と、彼の向かった先には 広場に据えられた石造りのベンチ。 そこには、金髪の少年が上体だけうつ伏せになってもたれかかっていた。 「レイ、どうしたんだよ。なぁ、レイ!」 黒髪の少年は彼の肩に手をかけ呼びかける。それでも返答がないのか、少年の表情が 見る間に凍った。 こちらからは黒髪の少年の顔しか見えない。顔を伏せた少年の――レイの顔は、ラウから 見えることはない。 泣きそうな顔で、黒髪の少年はレイの名を呼び続けた。 ラウは、どこか冷えた頭でその様子を見つめていた。 夏の空気は夕刻であってもまだむっとして暑い。だというのに、指先が凍えたように冷たい と感じるのはなぜなのだろう。内と外とで、感覚が切り離されているように。 この風景を、ラウは知っていた。否、知っているように思えた。 見たことなどあるはずもない。こんなことは記憶にはない。けれど――けれど、これは いつか、確かに脳裏に浮かんだ風景。 どこかで倒れているのではないだろうか。なにか事故があって、巻き込まれたのではない のだろうか。突然の病気に見舞われてで、ひとりきりで、助けを求めているのではない だろうか。 だってなにも云わずにいなくなるなんて思えない。思いたくない。だからきっと、あの人の 身になにかあったのだ。そうでなくてどうして、あの人が自分の前からいなくることが あるだろうか。 けれど、ならば、なぜなにひとつとして連絡がないのだろう。なにかあったのならばきっと 連絡がくるはずではないのか。誰かがそれを知らせに家に飛び込んでくるのではないのか。 電話は鳴らない。扉は開かない。 たったそれだけのことだった。 電話が鳴らないことを悲しんでいた。電話が鳴ることを恐れていた。扉が開くこと切望し、 扉が開かないことに安堵しながら失望を見た。 ――地に伏せる金の髪を、何度思い浮かべたか知れない。 あの人も、あいつも、そうして帰ってくることはなかった。 だから忘れようと、もう二度と見るものかと、そう思ってきたのに。 どうして今になって、いつかの風景が目の前に広がるのだろう。これは夢か、それとも 現実か? 夢であってほしくて、夢などであってはならないと願って、けれど現実は いつだって現実とは思えない残酷な早さでラウの目の前を過ぎゆくだけで。 「レイ!」 ひゅ、と息を呑む音が聞こえた。 それは誰のものでもなく自身が発した音で。掬い上げられるように我に返ったラウは、 半ば呆然としながらも未だに必死な声の繰り返される方へと一歩踏み出した。 その先には、ラウと同じ金の髪を持つ少年がいた。 少年を見下ろした。彼は目を閉じていた。 ラウは思う。 普通、自らが瞼をおろした様を自分の目でなど見ることなどありえない。 しかしこの少年の、幼くも見える寝顔は自分ととてもよく似ていた。 母よりも父よりも、レイは最もラウに似ていたのだった。 さらりと髪に触れる。つめたくてやさしい、懐かしいあなたの指先が嬉しいと、確かに 自分はそう思った。 ふわりと浮くような感覚がする。身体が重くて、けれどここはとても心地がいい。また 眠ってしまおうかと、そう思っていた。ゆったりと髪を梳く、この指の感触がとても 好きだ。 「まったく」 零れてくる言葉は、近くて遠い。それでもその声が聴こえることが嬉しくてならなくて、 かすんでいく景色に身を任せているとまた声が聴こえた。 「睡眠不足に軽い栄養失調と熱射病だと? ……私の前で死ぬことが、君の報復か」 困ったように響く声。その音にばかり気を取られていて、しばらくの間その言葉の 意味がわからなかった。ようやく意味を理解してから思う。違う、と。 違う。そんなつもりじゃかなった。あなたを困らせるつもりなんてなかったのに。自分はただ あなたに会いたいだけで。結果的にはあなたを困らせてしまっているとわかっても、 それでも会いたかった。それだけだった。 傍らに立つ気配は遠ざかっていく。行かないで、と云いたかった。届かない。声はもう 届かない。そうしていなくなってしまうのだ。誰も、――誰も。 「―――……?」 ぱたん、という音に引き上げられるように、浮いていた意識が身体に戻る。神経が身体に 繋がっているとようやく感じることができて、レイはゆっくりと瞼を上げた。 目の前に広がるのは、白。わずかな薬の匂いが鼻をくすぐり、壁を隔てた向こう側では 話し声や誰かがせわしなく動き回る音がする。 ああ、ここは病院なのか。 自分がどこにいるのかはすぐにわかった。ここはどこかの病院のベッドの上。しかし、 なぜ自分が病院にいるのか、その理由が全くわからなかった。 ラウの会社の前でシンと出逢って話をして、飲み物を持ってきてくれるというシンを 待っていたところまでは覚えている。気が遠くなって、けれどそのあとの記憶が なかった。 先ほどまでここにいたのはラウだった。ならば、彼がわざわざレイをここまで連れてきて くれたのだろうか。ありえないように思うのに、しかしこれ以上の理由は考えられなくて レイはわずかに眉を寄せた。 ラウがレイについて病院にきたというのなら。先程出て行ってしまったけれど、 彼はきっとここに戻ってくるのだろう。 戻ってくる――そう考えて、レイは身体の芯が冷えていくのを感じた。ラウは戻ってきて くれるのだろうか。たとえ戻ってきたとしても、もし――もし、目覚めたレイを見て ラウに嫌な顔をされたら一体自分はどうしたらいいのだろう。 迷惑をかけた、きっとそれは事実だ。しかし彼に嫌われるのは嫌だ。それだけは我慢なら ない。嫌だ。恐い。……そう、恐い。 恐いのはひとりになることじゃない。自分にはまだ親身になってくれる人がいるし、 気に掛けてくれる人もいる。レイはひとりじゃない。恐ろしいと感じるのは、 ラウに嫌われてしまうこと。切り捨てられること、たったそれだけだった。 女々しい考えだとは思う。けれど恐くて仕方がなかった。 もし、もしも、と先の見えない想いが脳裏を巡って凝っていく。こんな自分でいたくなんて なかった。これでは、ラウに迷惑がられ嫌われるのも当然ではないだろうか。 「嫌だ……」 呟いて、しかしなにが嫌なのか自分でもよくわからないままに自嘲気味に笑ってレイは 目を閉じた。久し振りにベッドにゆっくりと横になれた気がする。 空調の効いた、けれど寒すぎることのないこの部屋の空気は心地が良い。それが ただ部屋のせいなのかは定かではないけれど。 不安に揺れる心に気づかないふりをして、レイは待った。 それからどれほどの時間が経ったのかは定かではない。部屋の扉のノブが回る気配が して、レイはそちらへと顔を向けた。扉の向こうにいるのはラウだという確信が あった。 「――気分はどうだ?」 しかし、レイの考えとは裏腹に、ラウは今までにないほど自然にレイへと目を向けて いた。あまりにも予想外のことに、半ば呆気にとられてレイはラウを呆然と見つめて しまった。 そんなレイにラウがなにを思ったのかは知れないが、彼は手にしたトレイを レイのベッドへと運んできた。ベッドに付属しているテーブル代わりの板を、上体を 起こしたレイの前に据え、その上にトレイを乗せる。 「食べられないのなら、スープだけでも飲みなさい」 トレイの上には、細かな野菜の入ったスープと、お粥と、水。思わずラウを見上げるも、 ラウは当然のように椅子を持ってきてレイのベッドの横に腰掛けた。 レイの行動を見守るかのように見つめられて、レイは恐る恐るスプーンを手に とった。野菜スープの、スープだけをすくって口に運ぶと、野菜の旨みがたっぷりと 出ているスープの香りが口に広がる。あたたかさとわずかな塩気が身体に染み入るよう だった。 「あの、俺は……」 差し障りのない会話をと思うが、しかしどうにもそのままの質問しか出てこなかった。 つい口をついたようなレイの問いを、ラウは表情を変えず受け、流れるように返す。 「会社の前で倒れていたのを、ここに運び込んだ。覚えていないか?」 ああ、やはりそうだったのか。 ラウはおそらく、レイが倒れた場に偶然居合わせたの だろう。今はまだ仕事の時間だろうに、病院にまでついてきてくれたという事実が、 嬉しくないといえば嘘になる。けれどそのことがまた、ラウの手を煩わせたという 事実にもつながりレイは目を伏せた。 そんなレイをどう思ったのか、ラウは小さく笑って首を傾げる。 「ここの院長は父の頃からの主治医だ。元よりVIP用に空けてある無駄な部屋を私がどう 使おうと文句など云われないさ。君が気兼ねする必要はない」 「あ、はい……」 レイが恐縮していると考えたのだろう、ラウはそう云ってくれるけれど、レイはどうにも 居心地が悪く思えて。 不思議だと感じるのは致し方ないことだろう。これまでのラウの様子と今のラウの差に レイは戸惑っていた。嫌われるのはもちろん嫌だけれど、しかしこんな風にごく自然に ラウがそこにいることがにわかに信じられなかった。 なにか、レイが倒れているときにでも心境の変化があったのだろうか。 レイがここで目覚めたときには既にこうだったのだから、理由などわかるはずも ない。けれど、今がチャンスだとも思った。 今ならば、彼は話を聞いてくれるのではないだろうか。 ここでならば、きっと――。 「俺の、カバンは……?」 控えめに尋ねると、ラウは「ああ」と呟いてベッド横の棚の下の扉からレイのカバンを 取り出した。礼を云って受け取り、レイはカバンの中身をあらためる。 なにも、変わったところはなかった。 カバンの底には、隠すように1冊の手帳が入れられている。黒い、文庫本よりも ひと回り大きい手帳。数冊あるうちの1冊を、レイは家を出てからずっと離さず 持ち歩いていた。 底から取り出した手帳を手に、レイはその表面をそっと撫でた。 そうして、傍らで静かにレイを見る人に差し出した。 「ラウ、これを」 ラウに読んでほしかった。 読んで、そうして――。 |