うだるような暑さはおさまってきたものの それでもむっとした空気の中で意識が朦朧としかけたときのこと。 「ね、君さ」 見上げるとそこには、自分がが求めるものとは正反対の 深くやわらかな――漆黒と深紅。 “痛みも苦しみも私だけのもの” 暑さを断ち切るような快活な声に、レイはゆるりと顔を上げた。いつの間にか目の前に 立っていた少年は、不思議そうな顔でベンチに座るレイの顔を覗きこんでいた。 黒い髪に赤い瞳。 この時期に目にするには少々暑苦しいだろう色をもつその少年が、しかし不思議と 厭わしいとは思わなかったのは、彼のもつ光が真っ直ぐで誠実であったと感じた ためだろう。 「君、半月くらい前からここにいるよね」 なぜそんなことを――と、思ったことが顔に出てしまったのか、少年は慌てたように理由を 口にする。 「俺さ、そこの店で働いてるんだ」 示された方を見れば、なるほど、ラウの会社と小さな道を挟んで隣接している喫茶店が あった。あそこからならば、この会社の前にある広場の半分ほどがよく見える はずだ。主にレイがラウを待つこの辺りが。 やはりこういった場に毎日にのようにいると目立ってしまうのだろう。まさか近隣の 人間にまで見られていたとは思いもよらなかった。 そんなレイの考えを知ってか知らずか、少年はどこか楽しげにレイの顔を見つめ、 あっさりとレイの隣に腰を下ろした。 「それで、君は誰かを待ってるの?」 不躾な問いではあったが、それをそうとは感じないのは彼が揶揄ではなく純粋な 興味と疑問でもって自分に問いかけているためだろうか。 あまり同年代の人間とは話すことがないレイは、新鮮な気持ちでもってつい口を開いていた。 「兄を……いや、まだ兄とは呼べないのだが……」 「呼べないの?」 どう説明してよいものかと、レイは思わず口ごもる。それ以前に、いくら話しやすそうな 雰囲気とはいえ、見ず知らずの少年にこちらの事情を説明するのはどうかとも思うし。かと いってここまで云っておきながら突き放すのも具合が良くないだろう――そんなことを レイが考えていると、少年は「あ」と思いついたように声を上げる。 「じゃあ、やっぱりあれって君のことなのかな」 「え?」 「うちのお客さんってここの会社の人が多いんだけどさ。少し前に聞いたことがあるん だよ。誰だかの弟が、毎日会社の前で待ってるらしいって。もしかしたらって 思ってたけど、それって君のことじゃない?」 知らなかった。予想はしていたけれど、それ以上に人に伝わっていたなんて。ラウの会社の 人間に噂されるのではないかとは考えていた。けれど、レイが思うよりも現実はその速度が 早いらしい。 ラウの同僚らしい男性が自分を知っていたということは知っている。けれど、 自分を見ていた喫茶店の店員、喫茶店で噂話をする社員――そんな風に、見えないところで 人や噂は繋がっていて、知らない間に自分の存在が知れ渡っていたのかもしれない。 もしかしたら、ラウはそれを知っていたのだろうか。 迷惑を、かけているかもしれないという危惧はあった。だが、それ以前に、迷惑なんて ずっとかけ通しだったのかもしれない。 どうして気づけなかったんだろう。半月もここにいて、目立たないわけがなかった のに。自分がいかに自らのことしか考えていなかったのかを突きつけられ、レイは 内心で深くうなだれる。 「……俺さ。あの店で住み込みで働いてるんだ」 ふいに、少年がぽつりと語り出した。 レイの様子になにを思ったのか知れないけれど、少年は小さく微笑み、視線を落とすと ぽつりぽつりと零していった。 「3年前に交通事故で家族が死んで、俺だけ生き残って……。施設に入ったけど、 全然ダメでさ。中学のときなんか荒れに荒れて大変だったんだけど、そんなときに あの店のオーナーに会ったんだ」 太陽が傾きかけている空を見上げて、少年は赤い目を細める。懐かしい遠い過去を 思い返すように。 「あの人、変なおっさんでさ。初めて会った俺に説教するんだぜ? 放っておけばいいのに、 しつこいくらいに何度も何度も。――で、色々あったけど、結局はあの人のところで 雇ってもらえることになった」 定時制だけど学校にも通わせてもらってるんだ、と少年は笑う。 彼は不遇ではあるが、決して不幸ではないのだろう。悲しくつらい過去を持つということは、 しかしその人が『可哀想』である証明には決してならないのだから。 「君の事情はよくわからないけど、君はお兄さんに会いたくて毎日ここに来てるんだろ?」 「あ、ああ……」 「だったらさ、諦めちゃダメだよ。大切な人がいるなら離しちゃダメだ。伝えたいことが、 いつ伝えられなくなるかなんて誰にもわかんないけど、だからこそ、伝えられるときに 伝えとかなきゃ」 少年の言葉は少々見当違いではあったが、彼がなにを伝えたいのかは痛いほどよくわかった。 彼の痛みは、レイの痛みと同類だ。彼は3年前に家族を失い、レイは1ヵ月半前に唯一の肉親 であると思われていた母を失った。 しかし、彼は自らの痛みを抱えたまま、それでも未来を求めて立ち上がった。 彼とレイの抱く痛みは似ているけれど、それは決して重なるものでも癒しあえるものでも なくて、レイ自身が認めて見つめ直して初めて、未来へと進む糧となるのだろう。 これはレイだけの痛み。誰にも譲れない、渡せない大切なもの。けれど、癒すのではなく 奪うのではなく、ただそこにいて見守ってくれる人は確かにいるのだ。 今日初めて出逢った少年でさえ、レイを案じてくれている。レイにはまだ、多くはないけれど こうして心配して見守ってくれる人がいて。 だからこそレイは、今ここにいられて。 「確かに……失いたくないと思う以上、諦める気はないかもしれない」 レイの答えは、彼の言葉に対しての答えにはなっていなかったけれど。それでも少年は、 どこか安心したように微笑んでいた。 「うん、頑張れ。俺も応援してるから。あ、なんかあったら俺の店においでよ。ずっと ここにいたら暑いだろ? アイスティーくらいなら俺が作ってあげるから」 「……作れるのか?」 「馬鹿にするなよ、アイスティーとアイスコーヒーならオーナーよりも美味く作れる んだからな!」 ムキになる少年に、レイはわかったからと笑う。こんな風に、誰かと自然と話すことも 本当に久し振りだった。以前にも、多くはないにしろこんな時間をレイも持っていた のだと、今さらながらに気づく。 「あ、じゃあ今持ってくるよ。喉かわいたろ?」 疑問符をつけながらも、レイの答えを待たずして少年は立ち上がった。が、数歩進んだ ところでレイを振り返って、 「俺、シン。君は?」 「レイだ」 反射的に返すと、シンは笑った。 「すぐ戻るから待ってて、レイ!」 そう云って、シンは駆け出した。そういえば名前も名乗っていなかったのか、自分たち は。いくら同年代とはいえ、互いに無防備にもほどがあるだろうと、店に飛び込んでいく シンの後姿を見つめながらひっそりとレイは微笑む。 シンがいなくなってから、周囲の音が一気に遠のいたような気がしてレイは眉を 寄せた。人がひとりいないだけでこれほど、周囲の様子まで変わってしまうものだった ろうか。 どうもいつもと勝手が違うと思うのはやはり、レイがここにいるときはいつだって ひとりきりだったためだろう。こんな風に誰かと話をして、戻ってくるはずの誰かを 待つなんてことは久しいことで、だからこんな風に感じるのだろう。 しばらくレイはシンの店を見つめていたけれど、ふいに足元に視線を下ろしたそのとき、 下に広がるアスファルトがぐにゃりと歪み、反射的にきつく顔をしかめた。 顔が熱い。頭が内側から堅いもので叩かれるように痛い。視界が歪んで、胃の中身が せりあがってくるような感覚さえする。シンが来るまでは、いや、シンがいなくなるまで こんな感じてはなかったはずなのに。 目の前がぐらぐらする。周囲の音が遠い。身体が重くて、力が入らない。 ――駄目だ。 もうすぐシンが戻ってくるのに。まだラウにだって会っていないのに。こんなところで 意識を失うわけにはいかない。 ――駄目だ、まだ。 いやだ、俺は、 俺はまだ、ここにいたいのに――。 遠くで、なにかが落ちる音が聞こえた気がした。 |