母を覚えている。穏やかに笑う人だった。
とても物静かな気性のその人は、おそらく傍目にはそれなりの企業の社長夫人とは思え ないほどだったろう。
普段から仕事のため飛び回る父について外に出ることも少なくはなかったが、母は父 の仕事以外の用件で家を空けることは滅多になかった。
だから、家に帰ればいつも母がいるのだと、ずっとそう思っていた。






   “確かに残るなにかがある”






子どもがいた。
その日、子どもが家に帰ると母がいなかった。いつもは玄関を開けるとす ぐに母の声がするのに。母がいないときは家政婦がいて、母がいるときは家 政婦がいないから、家政婦のいないこの日は母が家にいるはずなのに。
子どもが家の全ての部屋を覗いても、庭に出てみても母の姿は見当たらなくて。
一度開けた扉をもう一度開けて。 下りた階段をまた昇って。
クローゼットの奥だ とか、棚の裏だとか、ベッドの下だとか、思いつく限りの場所を覗いてみても 母はどこにもいなかった。 諦めてしまえばいいのに、子どもはひたすらに母の姿を捜す。
気づけば部屋の中は薄暗くなっていた。なぜこんな風になったのかわからなく て、全てが初めてのことでどうしたらいいのかわからなくて、子どもはしばらく 呆然としていた。
寒くて、お腹が空いて、誰もいなくて――だから、子どもは部屋の電気をつけ てテレビをつけてお菓子を食べてその日の宿題を終わらせた。
それでも家の中に 誰もいなかった。
夕方、珍しくも父が早く家に帰ってきた。父と一緒に母は帰ってこなかった。い つものように父は部屋に戻って、少ししてから部屋から出てきて一言だけ云った。
母はもういない、と。
ああそうか。その一言で身体の中からなにかがすとんと落ちた。母は逃げたの だ。この家から。父から。その理由が、今ならわかる。父は母を愛しすぎた。だか ら母は逃げた。ひとりで逃げて、もうここには帰ってこない。
子どもは頷いた。それだけだった。
だって母は逃げてもうここにはいないのだから。どんなに捜しても、自分はここに いて、母はここにいないというそれだけのことなのに。
それ以外の一体なにを考 えることができるだろう。
誰もいない。誰もいなくなった。そこにいるのが当然だと思っていたのに、当た り前の日々はなんでもない顔をして目の前から消えていってしまった。予告もな しに消えたそれを追うことなどできるはずもない。
逃げていったあの人と。帰ってこなかったあいつと。
もう二度と、信じるものかと思ったのに。もう一度信じて、それでもやはり失 うことを止められなかったのに。
だから、だから今度こそ、なにひとつとして期 待することをやめた。もういいのだと。
信じることも求めることも待つこともやめてしまおう。やめてしまった。
誰も。なにも。全て。

だから、ここには誰もいない。誰もいらない。それだけでいい。





カーテンを開け放つと、眩いばかりの青い空が窓いっぱいに広がっていた。流れ のままに窓を開けると、今はまだ涼しげな風が部屋の中へと入りこむ。
胸の辺りにべたりと張り付いた心地の悪いものが風に流されて消えていくよう な気がした。久方振りながら馴染みのこの夢見の悪さも、夏の風と光にさらされ ればその色を失い消えてゆく。
今日も日差しが強い。またすぐに暑くなることだろう。暑さも寒さも嫌いでは ないが、今の時代は真夏と真冬という両極端な季節においては暑さと寒さとを 同時に体感することができるという不可思議な現象が起きている。科学技術の 発達は恐ろしいが、自然の摂理に平然と逆らえる人間こそが最も恐ろしい存在 なのかもしれない。
そんな、どうでもいいことをとりとめもなく考えながら、ラウはキッチンに立った。パンを トースターに放りこみ、冷蔵庫から牛乳のパックを取りだす。
賞味期限が目前にきている牛乳を手に、ラウはわずかに眉を寄せた。この牛 乳を買ったのは1週間前のこと。あの日のことはまだ覚えている。……忘れよ うとも、あのときの彼の表情と言葉は未だに脳裏にこびりついて離れない。
また思い出しかけたそれを、ゆるく首を振ることで意識から追い出し、ラウは グラスに牛乳を注ぐと一気に煽る。
昨日の残りのスープを温めなおしてから、玄関から取ってきた今日の新聞と焼 きあがったトーストを手にテーブルについた。ついでとばかりにテレビをつけ ると、ちょうど天気予報がやっていた。今日も暑い1日です、と画面の中のキャ スターは涼しげに笑う。
その日の最高気温に目を向けてから、ラウは手元の新聞に視線を落としたのだった。


『――嫌いに、ならないでください』
あのとき、彼の言葉にまずひとつ疑問を持った。一体誰を嫌いになるのだろ う、と。
相手を嫌いに感じることはつまり、それだけ相手のことを意識しているとい うことに他ならない。だから、自分が彼を嫌いになることはありえない。
それ以前に、ラウの中で彼は最初から好き嫌いではかれるような場所にはいないの だから。





暑さのせいで頭の中がぐるぐるするのを他人事のように感じながら、レイはなる べく涼しい日陰に座りこむと汗を拭って肩の力を抜いた。
今日はまだ長いのだ。こんな時間からバテてなどいられないというのに。
レイがラウを待つのは、ラウの会社の終業時間の1時間ほど前からだ。ラウはほぼ 毎日残業をしているために実際の退社までは相当時間がかかるし、彼は外回り のあとに家に直接帰ることもあるのでまともに会えないこともある。それでもレイ は毎日のようにラウを待ち続けていた。
傾きかけの日差しはそれでも強く都会のアスファルトを照らす。木陰のあるベンチ に腰掛けていても、こもるような熱気から逃れることはできなかった。
――あの人の揺れる瞳を覚えている。
あの日、ホテルまで送ってもらった日の翌日からもレイは変わらずラウを待ち続 けた。ラウもまた、それまでと変わらずレイと言葉を交わそうとはしなかったけれ ど。なのにどうしてだろう、彼の瞳が、そのさらに奥で揺れているように感じる のは。
ラウはレイを見ようとしない。薄々感じていたそれをはっきりと実感するように なったのはあの日のことがあったからだ。嫌いにならないでほしいと告げたと き、ラウは一瞬だけ驚いたような表情を見せた。次の瞬間には、彼は表情を完 全に消してしまっていたけれど。
そうして翌日からも、ラウは同じように目を 逸らしていたが、レイにはそれが好悪に関係のない、しかし意図的なものだと はっきり感じられて。
その理由などレイは知るはずもない。けれど、あの日にレイが聴かされたもう ひとつの情報とこれまでの様子を重ね合わせることにより、推測することはで きた。
レイがラウであっても、おそらくは同じような行動をとるだろうと思うから。――誰 ひとりとして自身に近づけようとしないのは、もう誰も失いたくないからだ。そ れは相反することかもしれない。けれどきっと、それは失って初めて気づくことで あって。
だからラウは、レイを見ようとしないのではないか。すぐに目を逸らす理由がレ イの考えたとおりだとするならば、自分は一体どうすればいいのだろう。
ここで身を引くなんてことはしたくない。
けれど、これ以上ラウを追い詰めたくないと思うのもまた事実であって。
どうしたいのかはわかっているのに、どうしたらいいのかがわからない。自分はた だ、あの人の傍にいたいだけなのに。

……もしかしなくとも、自分はとっくに縛られていたのだろう。
密やかに小さく揺れ続ける、あの蒼い瞳に。




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(2005/11/15)