肩を並べて歩く。
それはとても自然な動作のはずがひどく不自然で、
けれどどこか心地が良くて。






   “隣に立つこのぬくもりを”






夜が更けるほどに活気づく街を抜け、レイがラウを連れたのは寂れたビジネス ホテルだった。
あれほど騒音じみた街の喧騒も今は遠い。ラウの会社からここまで、駅を越 えて20分ほどになるが、彼はほぼ毎日こんなところを歩いてきたのだろうか。
レイがラウの前に現れてから既に一週間ほどが経っている。彼は先刻、住む家はも うないと云っていた。ならば今の彼の家はこのホテルだといえるのだろうが、しか し滞在費にしてもそれなりにはなるだろう。母を亡くして天涯孤独となったのだろ う少年が今どうやって暮らしているのか、母の貯金や保険金だろうか、もしそ うでないのならその金はどこから出るのか――疑問に思う点を挙げればきりがない。
レイに対しての疑問が数々とわきあがりながらも、ラウは小さく首を振ってそれ らを頭から追い払った。
ここで自分がそれを心配しても意味がないことだ。これ以上彼に関わることは できないし、関わる必要もない。
小さく溜息をついて、ラウは隣に立つレイに目を向けた。
ラウの様子をずっと伺っていたのだろうか、レイは驚いたように目を瞠るも、ラ ウから顔を逸らそうとはしなかった。
「……ここで構わないな?」
「あ、はい。ありがとうございました」
丁寧に頭を下げながらも、しかしレイはその場から動こうとはせず、ラウは怪 訝に思いわずかに眉を寄せた。
まだなにか聞きたいことでもあるのだろうか?
仕事場からホテルまでレイを送ってきたが、その間の彼らに会話は皆無だった。なに か話したいことがあるのならば道中にいくらでもチャンスがあったろうに。
……とはいえ、話しかけられたとしても自分がまともにとりあうとは到底思えな かったけれど。
レイはラウを見上げたまま何度か瞬きをした。その行動の意図するところなど、ラ ウにわかるはずもない。
驚いたようであり、不思議そうな顔でもある不可思議な表情でレイはラウを見 つめ、そうしてからゆっくりと目を伏せた。
「ご迷惑を、おかけしていることはわかっています。でも」
そうして俯くレイの姿が、記憶の奥のなにかと重なりラウはわずかに眉を寄 せた。こんなものを、思い出したいわけじゃない。
これまで存在すら知らなかった少年が、どうして記憶深くにいたと感じるこ とがあるだろうか。
知らない。そんなものは、知らない。
「……すみません、本当は俺が云えることではないのかもしれないけど」
顔を上げ、しっかりとラウの目を見てから、慎重そうにレイは口を開いた。
その様に、ラウは思わず眉を寄せる。レイもまた、ラウを見据えてどこか悲し げに目を細めていた。
「――嫌いに、ならないでください」

後頭部を力いっぱい殴られたような気がした。
嫌いになる? ――『誰』、を?




部屋の扉を蹴破るように開け、レイは入り口と対角にある窓に駆け寄った。
眼下に見えるのは、ここでは見慣れた都会の一角。きらびやかな姿の裏側の薄 暗い路地には、しかしどうにも不似合いな影があった。今はもう、こちらに背 を向けてはいるのだけれど。
こうして離れた場所からあの姿を見て、初めて彼がここにいるのだと――彼と 共にここまできたのだと確かに感じることができた。
ラウの会社からは歩いて20分ほど。それほど長い時間ではない。しかし、出 逢ってからこれまでろくに話もできなかった相手と共にいられたことは奇 跡にも近いのではないだろうか。
とはいえ、道中レイは道を示す以外に声を出せず、結局ラウとは会話らしい会話をすることがで きなかったのだけれど。
「あなたは……」
嫌われることは覚悟のうえだった。
会いに行くだけでなく、毎日のように彼の会社に通いつめて。それでも会い たいと、話をしたいと思えたのは、彼の自分を見つめる顔が迷惑がるそれと はどこか異なるように思えたからだ。
どことなくつらそうな悲しそうな色がときおり混ざるその様を何度も見てき たからこそ、もっと近くにいたいと、彼の心が見たいと、迷惑がられること も厭わずに毎日のように通い続けたのだ。
ラウの影は、こちらを振り返ることなく夜の闇に消えていく。
彼と共に歩いていたときの、密やかな高揚感はまだ胸のうちにしっかりと残っているのに。
――ふいに、ポケットの中の携帯電話が震えた。
一瞬で消えゆく熱を名残惜しく思いながらも、レイはポケットから携帯電話を取り出した。
購入時から変わらない携帯は、どんな場所であってもレイの手によく馴 染む。片手で携帯を開き、窓の外に視線を向けた。確認せずとも相手が誰 かはわかっていた。
「はい」
小さな電話から響くのは、慣れた人のやさしい声。親しい誰かの声を聞く のは数日ぶりのことで、レイは知らず方の力を抜いていた。
母の知人だという彼は、小さいながらも有名な弁護士事務所で若手弁護士 として活躍している。レイと母になにかとよくしてくれた人で、母の死 後、葬式や保険の手続き、引っ越しなどの相談に乗ってくれたのも彼だった。
電話の向こうからはレイの様子を気にしてか端的な問いがかかる。本当は 聞きたいことも云いたいこともたくさんあるだろうに、彼はいつもレイの 好きにできるよう気を使ってくれていた。
だからレイは、彼の気持ちに応えるため自身の考えをできうる限り素直に口にする。
「あまり変化はありません。ただつい先ほど、ラウにホテルまで送っても らいました。……なにも、話すことはありませんでしたが」
それでも、少しでも長い時間一緒にいられて嬉しかった。道中は無言だった けれど、レイにとってはそれだけのことも重大なできごとだった。
ラウの隣はレイにとって苦痛にはなりえない。だからもう少し、と、そう思 う。しかし。
――法的手段。
電話向こうからの言葉に、レイは背筋が凍るのを感じた。
「それは……っ」
法的手段だなんて。確かにそうすれば、ラウはこちらを向かざるをえな くなるだろうけれど、しかしレイが望むのはそのような形での対面では ない。そんなことをしたら、今度こそ嫌われてしまう。
……嫌いにならないでほしいと彼に継げたとき、ラウは虚を衝かれたよ うな顔をしていたのだ。その表情の意味などレイにはわかろうはずもな いが、けれどどうしてか、彼が思いも寄らない言葉に対して動揺したの だという風にもとることができて。
「それはまだ、待ってください。もう少し、もう少しだけ……」
ラウはレイを疎むというよりも、レイが必要以上に近付こうとすること に対して警戒しているように思えた。
嫌われているわけではないらしいということは今日のラウの反応で気づ いたことだけれど、だからこそ彼の考えが知りたかった。
「わからないけれど、俺はなにかを見落としているような、そんな気がす るんです」
ふいに電話の向こうで思いついたような声が漏れ、次いで書類をめく るような音がかすかに聴こえてきた。
相手の意図が読めずに黙って待ってみると、しばらくしてから慎重な 声がかかる。
その声に耳を傾けながら、伏せられていたはずのレイの目はゆっく りと見開かれていった。
ぽん、とどこかに放り出されたような感覚を覚える。けれど胸の 奥は熱いほどで、こみ上げてくる赤いものをこらえながら、レイは きつく目を閉じた。
レイの様子に気付いたのか否か、電話の向こうではそれとなく話題 を変えようとしている雰囲気が見てとれた。
戻っておいで、と差し伸ばされる手にすがりたいと思ったのは一度 や二度ではないけれど。それでも、あたたかな手を振り切るようにレ イは首を横に振った。
「ごめんなさい。でも俺は、あの人の傍に少しでも長くい たい――それだけなんです」

そう、ただそれだけのために自分はここにいるのだから。




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(2005/10/15)