変わり映えのないと思っていた日常に望まぬ変化を持ちこまれて、一体誰が平然としてい られるだろうか。






   “手を伸ばせばあなたがいる”






ここ数日に急増した、好奇に満ちた目に晒されるのが不快で、それとなく外回り を増やしているなどということ を知る人間はどれほどいるだろう。――尤も、知られないよううまく調節しているのは 彼自身であるのだけれど。
そんな子どもじみたことをしてしまうほどに、今のこの状況はラウ・ル・クルーゼに とっては不本意なことこの上ないものであった。
とはいえ、いくら多く外に出たとしても社に顔を出さないでいられるはずもなく。そん なときのラウをつかまえることに妙に長けているのが、大学の同期生であるアンド リュー・バルトフェルドであるのだが。
「よぅ、クルーゼ。最近、美少年にストーキングされてるって?」
これまで誰一人として直接に訊けなかったことを、本人を前に平然と云ってのけるこ とができるのはこの男だからこそだろう。
あまりにも彼らしい、細かいところを気にしない様にラウは諦めたように溜息をついた。
人の行き交うロビーなどならともかく、ここは人気のない廊下だ、聞き耳を立てるよう なものがいないのなら、適度に本心を晒しても問題がないように思えた。
「一体どこからそんな話が出ているんだ」
……問わずとも、もうその話がどこまで広がっているかは望まないまでも承知済み なのだけれど。
「どこって、みんな云ってるじゃないか。お前さんのことを知ってるやつなら、ほ とんど知ってるだろう。――弟くんだって?」
それはあまりにアンディらしい物言いだった。これだけはっきり云われてると、怒る気 も失せてしまう。そもそも、アンディに対して気どっても仕方がないのだからと思い直 してラウはゆっくりと頷いた。
「ああ、私の弟だと、そう云ってきた。レイ・ザ・バレル――母の旧姓を名乗っていた から、血の繋がりがあるのは確かだろう」
「なんでその弟くんがここに?」
「知るか」
すっぱりと云い切ると、アンディは意外そうに目を見開いた。
「なに、話もまともに聞いてないのか?」
「聞いてどうなる」
小さく溜息をついて、ラウは廊下の窓を見やった。眼下には、正面玄関前の広場があ る。かの少年が、毎日ラウを待つ場が。
「逃げた女の産んだ子だ。父がいない今、私を訪ねられてもどうすることもできな い。……第一、私はあの子を弟だと認めてはいない」
「なるほどね。だから毎日顔を合わせるだけで追い返しているわけか」
「……見ていたのか」
眉を寄せ、溜息をつく。
「まあ、お前が面白い目にあってると聞けばな。見なきゃ損だろう?」
アンディの瞳の奥は楽しげに輝いていた。人の不幸はなんとやら、といったところ だろう。特に身辺に変動が少ないラウのこと、なにかと問題が起こればその大きさ の程はあれど大抵アンディは首を突っこんでくるのだ。面白半分に、しかし当事者に はならないよう適度に距離をとりながら。



巡回に来た警備の人間に、もう時間だからと退社を促されラウたちは席を立った。
この日は珍しく、同じ課の数人と社に残ったまま頭を突きつけて七面倒くさい仕事を していたのだが、もうタイムリミットのようだ。パソコンからディスクを抜き出し、上司に 自宅への持ち込み許可を得るとラウはそれをビジネスバックにしまいこんだ。
上司と同僚に軽く挨拶をして、さっさと帰ろうと部屋の扉を開こうとしたとき、覚え のある声に足を止められた。
慌てたような調子でラウの名を呼ぶその声に小さく溜息をつくも、ラウは声の主が自 分の真後ろにくるまでしばし扉の前で待ってやる。ものの1分もしないうちに駆け足で ラウの元までやってきたのは、隣の課のアンディであって。
隣の課の連中も今日はラウたちと同様に残っていたようだが、どうやら彼らも同じタ イミングで帰り支度をしていたらしい。アンディはおそらく、帰ろうとしたときにラウ の姿を認めて引き止めたのだろう。
ラウを追うために急いだのか、2つあるカバンの止め具の片方がきちんと止まっていな い。適当そうに見えてその実細かいところはしっかりしている彼にしては珍しいこと だと思いながらも、悪い気はしないのでラウは大人しくアンディと肩を並べて歩きだした。
「クルーゼ、このあとは暇だろう?」
「自宅に戻れば仕事の続きがある」
「よし、暇だな。じゃあこれから付き合ってくれ」
仕事があると云っているのにアンディはそう決めてかかっていて。自分の周りに はどうしてこんな人間ばかりが集まるのだろうかと思いながら、せめてもの抵抗と してきつく睨みつけると、アンディは楽しげに笑ってこう云ってのけた。
「いつかの埋め合わせも兼ねて、どうだ? いい店を見つけたんだ」
アンディは以前より、恋人と穴場の店を探すことにはまっているようで、なにかと見 つけてはラウにその場を紹介していた。ラウと共に訪れることも、大学時代を含めれ ば少なくはない。
普通は見つけた店に恋人を連れて行くべきではないのかと思いながらも、アンディが ラウに紹介する店はどれもラウの好みに合ったものであるのだからラウに断る術な どなかった。
「奢れと云わんだけマシだと思ってもらいたいね。まあなんにせよ、これは上司命令だ」
元よりラウに選択権などはないだろう。アンディはラウの弱みと命令とを強調して逃げ 道を完全に絶とうとしていた。
アンディの命令に効力など皆無だと互いに知ってはいるから聞いてやる義理 はないのだけれど。しかしこれだけ熱心に誘うのだから、おそらく今日連れて行 かれる店はよほどよいところのなのだろうとラウは考え直す。もし不味かったらその ときは奢らせてしまえばいいと、ラウは軽い調子で考えて小さく苦笑した。
こんな風に、誰かと食事を取るのも久し振りだから、こんなのもきっと悪くない。





どうしてこんなことになっているのだろう。
喜びとも困惑ともつかない感情の中で、レイは1歩前を歩く彼の兄の背中を黙って見つ め続けていた。

最初にレイに気づいたのは、アンディと呼ばれたラウの同僚だった。
時間も遅くなり、もしかしたら今日は直接に家に帰ってしまったか、それともど こかで見落としてすれ違ってしまったのだろうかとレイが立ち上がったそのときのこと。
おそらくは裏口から出てきたのだろう、正面玄関ではなく会社の建物に沿った 横の道から現われたラウの姿を認め、レイは一歩踏み出したものの、すぐに顔を 見せた同行者に思わず足を止めた。
その瞬間をアンディに見られていたのだ。
自分では目立たないようにしていたつもりだが、やはり話は広がっていたのだろ うか、レイの姿を見て納得したような表情を浮かべたアンディは、反射のように眉 を寄せたラウを引き連れてレイの元へとやってきた。
アンディの瞳はレイを観察するように見つめていた。好奇に満ちた目であってもどう もこれは嫌いになれず、レイはアンディをどうかわしラウにどう話しかけたらいい かと考えていたのだけれど。
『君、今どこに住んでるんだ?』
思えば、この問いがきっかけだったのではないか。
住んでいるところはもうない、今は小さなビジネスホテルにて夜を過ごしてい ると伝えると、アンディは驚いたようにラウを見る。
ラウもまた、このことは今日初めて聞いたことだろうけれど、表情から彼の感情を読 みとることはできなかった。
……これで少しでも自分に対して興味を持ってくれたら良いのだけれど。
そんな打算的なことを考えながら、レイはラウを伺った。ラウはおそらく考えたく もないのだろう、レイの視線に気づかずに――いや、もしかしたら気づいたうえで のことかもしれないが――顔を背けて視線を落としていた。
そんなレイとラウを見かねたのか、しかし場に相応しくないほどに極めて明るくア ンディは笑ってラウの背中を叩く。
『よし、じゃあクルーゼ。レイをホテルまで送ってやれ』
は? とラウは答えた。レイもまた、声に出していれば同じことを云っていただろう。
今までろくに話もしたことがないというのに、どうしてラウがレイを送るという のか。話をしようとしても逃げられてばかりで、かろうじて言葉を交わすことがで きても拒否の言葉しか聞かされないというのに。
絶対に無理だ、とレイは思った。
けれど。
『こんな時間にこの子をひとりで帰らせる気か、クルーゼ? 物騒なご時 世だ、こんな子がこの辺をひとりでふらふらしてたら、一体どうなるかわかった もんじゃないだろう?』
アンディの言葉は、ごく一般的なものでありラウに向けられた言葉であった が、レイにはそれが自分に対してのことも含むと気づいた。
こんな時間まで子どもがふらふらしているんじゃない、と。
わかってはいるけれど――いや、レイがそれをわかっていることを、アンディも また気づいているのだろう。だからこそ、ラウにそれを伝えながらも遠回しにレイ に注意を促しているのだ。
……ひとりでも、生きていけるつもりだったけれど。それでもレイはまだ、法の下 では誰かに庇護されるべき存在なのだ。
そんなものはいらないと思う。自分がまだ子どもだから、煩わしいことばかりが先 立ってラウとも思うように話ができないのだ。
自分がきちんと成人していて、社会的な立場もある人間だったら、もしかしたら ラウと対等に話をすることができたかもしれないのに。
どうして、思うように行かないことばかりなのだろう。
自身の思考にとらわれていたレイは、だからそのときなにが起こったのか一瞬理 解できなかった。
『……行くぞ』
それまでアンディと話をしていたラウが、レイにそう告げて歩き出したの だ。その直前にアンディが『上司命令だ』と楽しげに云っていたらしいこ とは覚えている。が、なにがなんだかわからずに目を瞬かせたレイの肩を、ア ンディは軽く叩いて笑った。
『ほら、早く行かないと置いていかれるぞ』
アンディに、背中を押されたような気がした。
慌ててラウを追い、レイはラウの1歩後ろを歩いていた。肩を並べることはで きないけれど、手の届くこんな近くでこの人と共に歩けるだなんて、にわか には信じられないことだった。

けれど現実に、ラウはレイの目の前にいるのだった。




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(2005/08/16)