諦めるだなんて選択肢は最初からなかった。
逢いたいと、思っただけだった。
そして――






   “ただ声が聴きたかった”






目の前に変わらずそびえ立つビルを見上げ、レイは深く溜息をついた。
今、身体の向きを反転させて駅までひた走れば彼に追いつくだろうかとも考えた けれど、あえて実行に移しはしなかった。ここで追いかけても事態が変化すると は思えなかったから。
(……わかっては、いたけれど)
つい先刻まで目の前にいた兄の姿を思い返すと、未だに胸が熱くなる。日が落 ちて朱から蒼に変わっていく空を仰ぎ、レイはゆっくりと目を閉じた。
期待を、していなかったといえば嘘になる。すぐに受け入れてもらえるよう な単純なことがらではないことは重々承知だ。それでも、もしかしたらと思う 気持ちは、あったのだろう。
それは、自分の知らない兄弟の絆というものへの憧れだったのかもしれない。
生まれてからこれまで、家族は母ひとりきりだった。
父親が誰かとか兄弟の有無だとか、そういったことが気にならないはずはなかったけ れど、母に訊くことはできなかった。母はいつも穏やかに微笑んでいて、だか らこそ余計に訊いてはならないのではないかと、幼心にレイはそう考えていたのだ。
(母さん……)
レイの母は、ひとりでレイを産んで、ひとりでレイを育てた。母親の親兄弟の話は 聞いたことがないから、レイにとっては血の繋がった人間は母だけだった。
――そんな母は1ヶ月前に息を引きとり、レイはひとりきりになった。
死の間際、レイは初めて母から自分に関する様々なことを聞いた。なぜ母は女一人 でレイを育てていたのか、自分の父と、兄の名を、病床で聞かされた。
それでも、そのときまでは誰にも逢おうとは思わなかった。今さら血縁者に逢いに行 ったとしても迷惑がかかるだけだろうから、つながりを持つにしてもせいぜい母 の訃報を伝えることくらいだろうと考えていた。
(……けれど、これを見つけてしまった)
レイは、カバンの中から黒い表紙で大きめの手帳を取り出した。これまでに何 度も手にしたそれは、レイの手によく馴染む。
母の遺品の中にあった、数冊の手帳のうちの1冊。ここには、母が夫である父 の家を出てからこれまでのことがかみしめるように綴ってある。
日記といえるようなものではなかった。記されるのは10日に1度ほど。考えて いることやそのときどきにあったことを語るのみのその手帳には、母の半生が つまっていた。
手帳の中で最も多く記される名はレイのもの。次いで、『ラウ』。名こそ記 されることは多くないが、内容からしてそれはレイの知らぬ兄へ向けられた ものだろうと考えられた。
母の秘密を暴くようで心は痛んだが、それでも先を求めずにはいられなかった。
(これがなければ、きっと逢いにはこなかった)
そして、母の目を通して兄を見ることで初めて、レイは自分の兄に逢いたいと思ったのだ。
兄は母をどう思っているのだろう、母にこうまで想われている兄はどんな人物 なのだろう、兄はどこにいてなにをしているのだろう――考えだすときりがなかった。
兄は間違いなく、レイの存在を知らない。数年前に亡くなったという父も、もし かしたらレイのことを知らないままだったかもしれない。そんな状態で兄に逢った とて、嬉しい顔をされるはずがないことは最初からわかっていた。
けれどもし、もし仮に、兄が母に対して良い感情をもっていないのだとした ら。……もしそうなら、伝えなければならないと思った。母の想いを、兄だけ には伝えなければならないと、そう思った。
逢いたいという、それだけの想いがレイを動かしていた。逢いたい。顔が見た い。声が聴きたい。話がしたい。――あなたを、知りたい。
明確な理由などあるはずもない。相手のことをなにも知らないというのに……い や、全く知らないからこそ求めたのかもしれない。
レイにとって、直接に血の繋がる人間はもう、兄しか残っていない。
母が死んだら、ひとりきりで生きて行くのだと思っていた。ひとりで、生きてい けるのだと思っていた。その自信も自覚もあった。
けれどひとたび、その存在を知ってしまったら、もうどうしようもなかった。
家族はその血の繋がりがつくるものではない。共に過ごした日々により、他人同士 が家族となるのだ。だから、兄と自分はただの血縁者に他ならず、レイの存在を知 らない兄からすればレイなど赤の他人も同然だ。
(――それでも、逢いたいと思ってしまった)
だから、自分はここにきた。
一度や二度相手にされなかったからといって、諦める気などレイには毛頭なかったのだ。



帰る道すがら、ラウは突然に現われた少年のことを思い返していた。『レ イ・ザ・バレル』と名乗った彼に、ラウは表情にこそ出さなかったけれど ただただ動揺した。
まさか今になって弟なる存在が現われるなど思ってもみないだろう。
――もしや、と思わないことはなかった。他人の空似や勘違いならどれほどよ かったろうにとさえも。
あの少年の顔、そして『バレル』という姓。レイと名乗った少年の顔は、ラウ自 身よりもラウが幼い頃に見ていた母の顔に酷似していたし、『バレル』はラウの 母の旧姓だ。
証拠などなくとも、それだけで彼と母との繋がりは確信できた。けれど、だから といって、それをそれとして認めることはできなかった。
母は、まだ幼いラウを置いたまま、理由も告げずに家を出て行ったのだ。そん な女がどこで子どもを産もうが勝手だが、いくら半分は同じ血が流れていようと その子どもが自分の弟だと認められるほどラウは寛容ではない。
『レイです。俺はレイ・ザ・バレル。あなたの弟です』
――自分には弟などいない。
そう答えると、彼は悲しげに眉を寄せたけれど構ってはいられなかった。
今さら彼が自分にどんな用があるというのか。父はラウが高校生の頃に亡く なって、父の持っていた会社や家などの権利は全て父の弟の手へと渡って おり、ラウが持つものといえば生活に苦労しない程度の父の遺産くらいだ。
これまでに存在すら知らなかった弟を認知しろというのはどだい無理な話 で、そんなことを自分に求められても困るというもので。
このレイという少年がどういった理由でラウの目の前に現われたかは知れな いが、ラウは彼と話をする気などはなかった。
『待ってください! 俺の母は――』
『帰りなさい。――私は、君を知らない』
だからもう、彼とはこれっきり縁を切るつもりで、ラウはレイに背を向けたのだけれど。




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(2005/08/03)