目の前にそびえ立つビルを見据え、少年はゆっくりと深呼吸をした。 この中に、自分の求める人――彼が、いる。 “届かなくても伝えたい” 知人に渡された書類を元に、都心のビル群を1時間ほど歩き回った末にうちひとつのビル を発見し、少年はそれを前にどうしたものかと首を傾げた。 求める人を捕まえるには、正面突破することが一番の近道ではあるのだけれど、それを したら間違いなくその人に迷惑がかかってしまう。受付であの人を呼び出してもらうにし ても、その時点であの人と自分の関係を証明しなければおそらくは受け入れてもらえな だろうところが難点だ。 自分としては、あの人との関係を明言しても構わないのだけれど、まだ逢ってもいない あの人がそれを望んでいるとは到底思えなくて。 だから、待つことにした。 いつ来るかはわからないけれど、正面玄関が見える位置でひたすらにあの人を待つこと に決めた。 新人であるあの人が定時よりも遅く帰るということもまた、知人から得た情報である のだが、少なくとも定時以前に帰ることは滅多にないとわかっただけでも大きな収穫 だと思う。 ビルの前の広場の、隅に点在するベンチのひとつに腰掛け、正面玄関から出てくる人 たちをそれとなく観察し、ひたすらに探していた。 そうしてどれほど経ったろうか。 定時はとっくに過ぎた。時計を見ると、一般的には夕食どきといわれるだろう時間に程 近くなっている。けれど、そこから立ち去ることはできない。彼が出てくるのだろう時 間はここからだ。もしかしたらこのあとすぐに現われるかもしないけれど、逆に何時間 しても現われない可能性だってあるのだから。 ビルの正面玄関に目を走らせ、誰もいないことを確認してから少年はカバンの中か ら何枚かの書類を取り出した。 そこには、彼が求める人の顔写真と彼のこれまでの履歴が綴られている。写真は彼 がこのビルの会社に入社した今春のときのものだから、そう顔は変わっていない だろう。自分によく似た金の髪はゆるく波打って肩あたりまで伸びていた。 目の色もよく似ているが、自分と彼とではどこか雰囲気も違うように見えて。 自分とよく似た、けれど全く異なる場に存在する人。 きっとこんなことがなければ、出逢うことさえなかったかもしれない人。 ――逢いたいと思うのは、もう失いたくないと思ったからだ。 ふいに、温かい風に頬を撫でられ少年は顔を上げた。この時期が夏でよかったと考え る。もし冬だったら、流石に何時間も同じ場所で待ち続けるのはつらかったろう。 そのビルからはそう時間を空けずにちらほらと人が出て行く。長時間目が離せないの は大変だが、一時にたくさんの人が出てくるよりもましだろうと少年は考え直した。 少なくとも、ビルから出てくる一人一人の顔をある程度しっかりと見られるのだか ら充分だ。 そうして、濃いグレーのスーツを着た長身の男性が現われビルの前の閑散とした 広場に足を踏み入れたとき、少年は反射的に立ち上がった。 遠目にではあるがもしやと思った。 もしかして、まさか、だって、でも、きっと。 あれは自分が求めた人だろうか。顔写真しか見たことがないというのに、まだ顔も見えない というのにどうしてそう思ってしまうのだろうか。 それでも。――それでも、高鳴る胸を押さえる術を知らぬままに少年は駆け出した。 少年によく似た髪の色とよく似た面影を持つその男性は、近寄っていく少年に驚いた ようにほんのわずかに目を瞠ったけれど、気にしないことにした。写真と同じ顔だ。世 界には自分に似た人間が3人いるというが、この場に彼と同じ顔をした人間がもうひとり いるとは考えられない。 ならば、これは彼だ。 間違いない。間違えるはずなど、ない。 少年は頭ひとつ分背の高い男性を見上げ、これまで何度も繰り返し音にしてきた 名をようやく相手に向けることができた。 「ラウ……ラウ・ル・クルーゼ?」 ラウと呼ばれた男性は、その言葉に眉を寄せる。その顔をみて少年は再度確信 する。人違いであればこんな顔はしないし、第一すぐに否定するはずだ。 怪しむような目であるというのに、その人が自分を見ていると思うだけでこん なに嬉しいと思える人がこれまでいただろうか。捜し求めていたから、その労力 が報われるからなどといった、そんな想いではない。 これはもっと深く、確かなものであって。 ――この人だからこそ、嬉しい。 そう感じることができることこそが、自分にとっての幸いなのだ。 知って、捜して、求めて、そうして。 「やっと逢えた――兄さん」 だから、そのあとどうなるかなんて考えていなかった。 ……違う、どうなるかなんてわかりきってたから、ずっと知らないふりをしていた。 その事実を目の前に突きつけられるまで、きっとそんなことはないのだと、根 拠もなく信じることしかできなかった。 「私は君の兄などではない」 「帰りなさい。――私は、君を知らない」 だからこれは、当然の報いなのだと受け入れることしかできなかった。 |