これまでの人生に転機は何度あったかと考えると、おそらくは2度か3度だ ろうと答えることができるのではないかとラウは思う。
1度目はまだ小学校に上がったばかりの幼い頃、2度目は大学に入っ たばかりの慣れないキャンパスで、そして3度目は――。






   “例え許されない出逢いとしても”






ラウ・ル・クルーゼの1日には特筆すべきことはない。
朝起きたら会社へ行き、仕事をして、夜遅くに帰ってくる。入社したばかりで学 ぶべきことが多いため、残業がない日のほうが珍しい。
彼の毎日はそうやって格別の変化もなしにめぐるのみで、それに対して思うところ があるわけでもない。
この日々を色で表すのならモノクロだろうとラウは思う。なにかを求める気持ちも 請い願うことも今はもう忘れてしまった。
あえて楽しみといえることがあるとするのなら、仕事で成果をだすことくらい で、しかし同期に入社した社員のように躍起になることはラウにはなかった。


その日は珍しく、夕刻前にはクライアントとの打ち合わせを終え、ラウは社へと戻 っていた。この日の予定は全て消化済みだ。溜まっていた書類の整理と今後の約束 の確認をしたら、今日は帰ってしまおうか。
そんなことを考えながら、自身のデスクに整然と並べられたファイルのひとつに手 を伸ばすと、ふいに後ろから背中を盛大に叩かれラウは眉を寄せた。
「いよぅクルーゼ、こんな時間からお前さんがここにいるなんて、珍しいな」
陽気な声に内心で溜息をつきながら振り返ると、そこには大学の同期生でもあったア ンドリュー・バルトフェルドが人好きのする笑みを浮かべて立っていた。
「……なんの用だ、バルトフェルド」
あからさまに顔をしかめて、ラウは呻くように声を出す。アンディに叩かれた背中が 痛みで痺れている。この馬鹿力が、と目線で訴えるも、アンディは気づかないふりを してにこにこと話を続けた。
「いやな、今晩こっちの課の連中と飲みに行くんだが、よかったらお前さんもと思っ てね」
「断る」
「そうつれないこと云うなって。うちの女の子たちがお前のこと紹介しろってうる さいんだよ」
そう云って、アンディは視線だけで軽く後ろを見やった。
ラウとアンディは所属の上では別の課である。が、この広い部屋には3つほどの課が まとめて入っているため、ラウのデスクがある列より2列ほど奥のデスクからはア ンディたちの課となっていた。アンディの課は比較的女性が多いのだが、そのうち 数人の女性がアンディと話をするラウが気にかかるのかちらちらと視線を寄越して くる。
「私には関係ない」
その視線を断ち切るようにきっぱりと云い切ると、流石に無理だと判断したのか アンディは大袈裟に肩を落として溜息をついた。
「……全く、お前さんも昔と全然変わらんな」
「ふん、そう簡単に変わってたまるものか」
「いや。人はなかなか簡単に変わるもんだと俺は思うがね。現にお前さんだって――」
アンディが懐かしむように目を細めたそのとき、隣の課の電話が鳴り、それを 取った社員がアンディの名を呼ぶ。得意先の社名を伝えられ、アンディはやれ やれといった顔をして「すぐに行く」と答えた。
そうして、自信のデスクに戻ろうとラウに背を向けるも、思い立ったように振 り返ると悪戯っぽく笑いかけた。
「今回の埋め合わせは後日きちんとしてもらうからな。――上司命令だ」
そう云ってわざとらしくウインクをすると、ラウの返答を待たずしてアン ディはデスクへと戻っていった。
上司の命令といわれてしまえば、新入社員のラウが断ることなどできる はずもない。――建前上は。
ラウとアンディは、大学では同期生でありながら会社では先輩後輩の関係 にあった。アンディが大学を出てすぐにこの会社に入社したのに対し、ラ ウは大学院に進学していたために現役で同年の社員たちより2年遅く入社し たのである。
同期の中でもアンディは特に優秀だったようで、どうやら他の同期を差し 置いてひとり一段上へと上がっていた。
同期生が上司であるというこの状況は、一般的にはやりにくいことなのだ ろうが、ラウに関して一般常識が全て当てはまることがあるはずもなく。そ れは細かいことは基本的に気にしないアンディの鷹揚さはもちろんのこと、他 人に頓着しないラウの性格も大きな要因であるのだろうけれど。
適度な距離を常に保つことのできるアンディは、ラウの唯一の友人とも いえる男だった。だから気分さえ乗れば酒を飲みに行くこともやぶさかで はないのだ。そこに他の人間――特に女がいなければ。
女が嫌いなのではない。ただ面倒なのだ。色目を使ってくる女だけではな く、下世話な同僚、妙に世話を焼きたがる上司、そんなもの全てが面倒で 仕方がない。仕事以上のことにどうして構ってやらねばならないと何度云 いたくなったか知れないほどに。
他人に過度に干渉されることなどもうごめんだ。友人だろうが恋人だろう が、つきあうならばアンディのように適当に距離を測れる人間がいい。
誰かと関わった末に訪れるものなど、最初から決まりきっているのだから。



クーラーのよく効いた社内から一歩出ると、時刻としては夜といっても差 し支えないだろう時間だというのに生温かく思い空気に身を包まれラウは わずかに眉を寄せた。
まだ真夏というには早いが、春というには暑い時期。湿っぽい風により、体 感できる温度はさらに上昇する、過ごしにくい日々の終わりごろ。
夏ともなれば、外回りも面倒なことになるだろう。外と社内の温度の差にも 気をつけなければならない。どうにも対処のしきれないだろう難題を思うと 気も重くなるが、この場を選んだのは紛れもない自分自身であるのだから、怨 み言を云い続けるわけにもいかなかった。
会社の正面は、広場のように場が開けている。休日にはここで小さなイベント を催すこともあるらしく、丸く開けた空間の端にはベンチもいくらか設けられ ており。
晴れた日の昼休みには、社員が弁当を広げている姿も見られるが、流石にこの 時間ではベンチに座っているものなど多くいるわけがなく。
帰路につく社員以外には、普段は犬の散歩をしているような人の姿しか見えないは ずのその広場に、しかし今日は珍しく子どもがいた。
子どもといっても、年の頃は中高生ほどか。学校帰りなのか、なにか用事が あってここにきたのかは知れないが、ラウの出てきた会社を真っ直ぐに見つ めているところを見ると、おそらくは社員の誰かを待っているのだろう。
珍しく見かける子どもの姿にラウはわずかに興味を持つも、しかし関係のない ことだとすぐに意識から外す。
そう、この時点では、その子どもは自分に全く関係がないのだと、ラウは思 っていたのだった。
――その子どもが真っ直ぐにラウを見据え、駆け寄ってくるまでは。


ラウとよく似た色の髪をした少年は、ラウの姿を認めるとベンチから立ち上 がり駆け寄ってきた。
なにか尋ねようというのかとも思ったが、少年の蒼い瞳に迷いはなく、彼は ただラウだけを見つめていた。
そうして、ラウの目の前に立つと、少年はひとつ深呼吸をして確かめるよ うに声を出す。
「ラウ……ラウ・ル・クルーゼ?」
名を呼ばれ、しかしその意図が読めずにラウはわずかに眉を寄せた。自分 はこの子どもを知らない。ではなぜ、この子は自分の名を違わずに呼ぶのだ ろう。
子どもは、ラウの沈黙を肯定と受け取ったのか、表情を緩ませてラウに微笑 みかける。その様はいつかどこかで触れたことのあるもので、ラウは一瞬だけ、目の前が 揺れるような感覚に陥った。
しかしその子は、ラウを見上げたまま嬉しそうに微笑み、口を開く。
「やっと逢えた――兄さん」




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