ある日恋人に、唐突に理由も告げられぬまま「土曜の予定を空けておけ」と云われて、 しかしあっさりとそれを承諾し友人との予定をキャンセルしてしまえるあたり、自分は恋に 生きる男なのだなとムウは思う。 ……まあ、結果としてやっていることは恋人の相手ではなく子どものお守りであったの だけれど。 前夜までにムウたちの家には、一体なにに使うのかけっこうな量と種類の食材が運び込ま れていた。そうして、その日の朝に尋ねてきた少年の姿と彼の言葉に、ムウはやっと状況を 把握したのだった。 「ったく、最初に理由のひとつでも説明してくれりゃあよかったのに」 ボウルいっぱいの生クリームを渾身の力でかき混ぜながらひとりごちると、オーブンを 覗いてスポンジの焼き具合を見ていたレイが顔を上げてムウを見やる。 聞き取れなかった、と書いてある顔に、ムウはなんでもないからと笑いかけた。 「にしても、本当に上手いよなー」 力を入れすぎて痺れた手を軽く振って、ついでとばかりにレイの頭を撫でてやると、レイは 思わずといった風に肩を竦めた。 レイが料理をするのに慣れているということは、初めて彼がこの部屋に来たときに知ったこと だが、まさかこんな手の込んだ料理やらお菓子やらまで作れるとは思ってもみなかった。 そう指摘すると、レイは小さく微笑んで首を横に振る。 「この日のために勉強してきたんです。俺ひとりではなにもできませんから」 「いや、これだけできれば充分だろ。俺だったら大喜びだね」 ぽん、と頭を叩くと、レイは嬉しそうに目を細めた。この子は感情表現が豊かな方ではない けれど、こういう些細なところで感情が明確に表れるのだ。 可愛いものだなと思う。 久し振りにムウとラウの部屋を訪れた彼は、彼の保護者の誕生日を自分の手で祝いたい のだと云った。 自分にできることはこれくらいしかないからとすまなそうに微笑むが、 実のところ祝われる方からすればその心こそが嬉しいのだと、そういったことには彼は まだ気づいていないらしい。どれほど頭が良くて大人びていても、やはり彼は子ども なのだ。 ギルバート・デュランダルはムウからすると妙に苦手な相手ではあるが、この子にこれだけ 好かれているということは、レイにとっては間違いなく良い保護者なのだろう。 まあ、ムウにとってそんなことはどうでもいいことなのだけれど。 今はとにかく、この真面目で素直な子どものために手を尽くしてやることが第一なのだから ――と、ムウはボウルを持つ手にさらに力をこめた。 唐突にデュランダル邸を訪れたラウを、ギルバートは驚いた様子を見せながらも 満面の笑みで迎え入れた。 「申し訳ないが、レイは朝から出かけていてね」 淹れたての紅茶を客人に差し出してソファに座り、館の主は困ったように微笑む。少ない 休日を、大切な養い子と過ごそうと考えていたのだろう。 レイ不在のその理由をラウは知っていたが、ここでギルバートにそれを告げてやる気は 毛頭なかった。当然だろう。そのためにラウはわざわざここを訪れたのだ。 「しかし嬉しいものだね。君が自ら私の家に来てくれるとは」 貴様のためではない――云いかけながら、ラウは寸前で口を噤む。これはレイのための 訪問だが、ある意味ではギルバートのためでもあるのだから。 ラウの沈黙をどう解釈したのか、ギルバートは組んでいた足を解いて身体をわずかに 乗り出した。 「……そろそろ、私のところへ来る気になったかい、ラウ?」 それは以前より囁かれてきた言葉。ラウのなにを気に入ったのか知れないが、ギルバートは ことあるごとにラウに誘いをかけていた。パトリック・ザラの元を離れ、自分のところに 来い、と。 到底無理な話を、ギルバートはなぜか熱心にラウに持ちかけるのだ。普段はからかいとも いやがらせともつかないことばかりをするくせに。 「お前はクライン派だ。パトリック・ザラを後見人とする私が、お前のところへなど 行けるはずもないし、行く気もない」 「……つれないね」 残念そうに呟くも、その瞳が諦めを宿していないことは見ていればわかる。ギルバートは あからさまに悲しげな顔を作り、ゆっくりと目を伏せた。 「ここにはレイもいる。君が来てくれたらあの子も喜ぶだろうに」 「それならば、レイを私のところへやればいい」 ギルバートのなりふり構わぬ様に、半ば呆れつつも苦笑まじりにラウがそう指摘してやると、 ギルバートはふと目を細めて口を開く。 「それはできないな。なにをおいても君のことは欲しいと思うが、君のためにあの子を渡す ことだけはできない」 わずかに下がる声音に、ラウは小さく笑った。 「ならば諦めるのだな。生半可な気持ちでは私は手に入らないよ、ギルバート」 「では、彼の気持ちは生半可ではないと?」 ギルバートの問いに、ラウはあえて変わらぬ微笑みを返す。 その様子に、ギルバートは 自らの言葉がただの想像ではなかったことを悟ったのだろう、はっとした顔をし ながらも、次には普段どおりの読めない笑みを浮かべていた。 自身についての仔細を、ギルバートに教えてやるいわれはない。 ラウはゆったりと構え、 ロウテーブルの上の紅茶に手を伸ばした。だいぶぬるくなってしまったが、やはり ものが良いのだろう、その香りが失われることはない。 うちで飲むものとは大違いだ――と、 つい含み笑いをし、ラウは足を組み替えてギルバートを見やる。 「本当はレイを誘おうかと思っていたのだがな、いないのならば仕方がない。今日は 空いているのだろう、ギルバート? 付き合ってもらおうか」 ラウが取り出したのは、とある舞台の観賞チケットだった。キャストもスタッフも一流を そろえたというその舞台は以前より話題となっており、公演が始まりしばらくたってからも チケットの入手が困難だと云われるもので。 貴重だろうチケットを、偶然居合わせた自分が使っても良いのだろうかとギルバートは首を 傾げる。それ以前に―― 「彼はいいのかい?」 「あれはこういったものには向かない。折角のチケットを安眠時間と引きかえにされては 敵わないからな」 なるほど、とギルバートは笑う。確かにムウは、芸術鑑賞よりもスポーツ観戦のような ものの方が楽しめるタイプだろう。ギルバートの顔にはそう書いてあった。 事実ではあるが、それが真実ではないことをギルバートはまだ知らない。そのことを 伝えてやる気はもちろんないし、今は気づかずにいてくれなければ困るのだ けれど。 ラウは内心で微笑みながらも、表面上は仕方ないといった風にギルバートを 誘う。レイがいない今、ギルバートがラウの誘いを断る理由はなかった。 だからこそラウは、自らギルバートの元を訪れたのだ。 まだ続きます。
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