09. Heaven helps those who help themselves.
ラウがバイトを始めた。 駅前にある進学塾で、中高生に英語と数学を教えているらしい。 始めこそ、あのラウが人にものを教えることができるのだろうとか不安を感じていたム ウだったが、人づてにラウの授業はなかなか好評らしいと聞いて密かに胸を撫で下ろし たものだった。ラウの無駄を省いた的確な授業は、上昇志向の強い進学塾の生徒たちの 体質にはよく合っているのだろう。 ラウがバイトを始めたのにはもちろん理由があって、ひとつは彼が保護者から生活費と して振り込まれる額が減ったということである。自立したいというラウの意志を尊重し たのか、それともひとりで手元を離れていったラウへのちょっとした意地悪のつもりな のか、家賃や光熱費などの基本的な生活費のみ振り込まれ、ラウはそれ以外の費用は自 分で働いて払うこととなった。それでも、最低限の生活費を保障してくれるあたり、あ の保護者は本当にラウに甘いとムウは思う。 元々贅沢をしないラウにとっては、その金だけでもそれなりに支障なく生活はできるは ずなのだが、それでもわざわざ時給の高い塾講師のバイトを選んだのは、ひとえに稼ぐ ためであったといえよう。 それは今でなく将来のため。 いつか保護者の手を離れ、ひとりで暮らそうというときになっても先立つものがな くては生きていけないから。ラウがそれだけ前向きに働いているとわかってムウはた いそう感動したものだったが、ここで少々問題が生じていた。 ただでさえムウは以前からバイトをしていて、週3日ほどは帰りが遅いというのに、 今度はラウも同じような状況となっているのだ。 そのため、2人が顔をあわせるのは深夜か朝、学校での休み時間のみとなってしまった。 だからといって彼らの関係が変わったかといえばそうでもなく、2人は案外普通に日々を 過ごしていた。 「ただいまー」 その日はムウもラウもバイトの日だった。ラウの方が早く終わるから、ま た本でも読んでいるのではと思っていたのだけれど予想に反して部屋の明か りは消されていた。 玄関にラウの靴があったから帰ってはいるのだろうが、もう寝ているのだろうか。 そう思いながら寝室を覗きこむと、やはりラウは先に眠っていた。そういえ ば近々連続した講習が始まって、その準備が面倒だとぼやいていたのはつい今朝 のことで。 時間があるならゆっくり話でもしたいと思っていたのだけれど、疲れているのなら ば仕方ないだろう。 ラウの寝顔をしばらく見つめてから、起こしてしまわないようにとムウはリビングへと戻った。 もう時間は遅いし、ラウも眠ってしまっているのだからなにか軽く食べて自分もさっ さと寝てしまおう、そう思って冷蔵庫を開き、ムウは首を傾げた。 小さな冷蔵庫の最上段、最も目につきやすい位置に置かれたラップのかけられた皿には 、調理済みのおかずが入っていて。ラウの夕食の残り物だろうかと思ったけれど、そ れにしては量が多いような気がする。 ――まさか、自分のために残してくれたのだろうか。 そんなことあるわけがない、とは思うものの、この量を見る限りではその可能性が一番 高いとしか思えず。 あのラウが、どんな顔をして皿にラップをかけていたのだろうかと考えると、頬が緩ん で仕方がない。 こんな風に些細な優しさを見せるようになったのも本当に最近のことで。 もしかしたら前からこんなことはあったのかもしれない。自分が気づいていなかっただ けかもしれない。 けれど、ラウがわざわざ自分のためにこうしてくれていると、それが目の前にあって実感 できるとできないとでは大きな差があって。 嬉しい。そう思うのは否定できない想いで。 話をしたり触れ合う機会が減っても、それでも相手を想っているとわかる、この瞬間が言 葉にならないほどに嬉しくなるのはなぜなのだろう。 想っている。想われている。 ただそれだけのことであるのに。なにも変わっていないはずが、まったく別のものにな ってしまったようにも思えて。 ラウと一緒にここで暮らせてよかったと、ムウは今さらのように考える。こんな風に 、穏やかで優しい気持ちになれるのだから。 相手がラウでなくても、それなりに楽しい有意義な時間を過ごすことはできるだろう。そ れでも、もうムウにとってここにいるのはラウしか考えられない。なぜ惹かれたのか、そ の理由でさえ実は未だ定かではないというのに、それでもラウが誰よりも大切だと 、ムウは胸を張って云える。 そのラウが、こんな風に自分を想っていてくれるなんて、これ以上に胸が熱くなるこ とがあるだろうか。 緩む頬を引き締めることなど忘れ、ムウは手にした皿を電子レンジに放りこんだ。 |