08. What is done cannot be undone.



「変わっていないのだな……」
改めて部屋の中を見回して、ラウは呟いた。
住んでいた時間はあの家にいた長さとは比べものにならないというのに、それ でもここを懐かしいと感じるのはなぜなのだろう。
久しぶりに横たわるこの部屋のベッドは、なじんでいるそれよりも質が良いとは いえないのに、それ以上に落ち着くような気さえして。
帰ってきたのだ、自分は。この部屋に。
「ラウ、起きたか?  朝飯できてるぞ」
リビングから顔を覗かせたムウは、ベッドに横になっているラウを見てなぜ かぱっと笑顔になった。
なにがそれほどに面白いのかと思いながらも、ラウもつられて笑みを浮かべる と、ムウはよく懐いた犬の用意にベッドに近寄るとラウに抱きついた。
「おはよう、ラウ」
「……ああ、おはよう」
いつもならば即座に突き放すところであるが、今日ばかりは仕方がないだろうと ラウはムウのされるがままに身を任せていた。
「変わっていないのだな」
ムウに髪の先をいじられながら、ラウはぽつりと呟いた。
「ん?」
「好きに処分しろと云わなかったか?」
ラウの示すものに気づき、ムウはああ、と頷いた。2人の視線の先には、以前とほ とんど変わらない部屋の姿。
ラウが残していったものは、多少片付けられてはいるものの見た限りで捨てられた ものはないように思えて。
「捨てられるわけないだろ、お前のものなんだから」
「……本当に、馬鹿だな。お前は」
ラウが戻ってくるかなど定かではないというのに、ムウは戻ることを信じて待ってい たのだろうか。ラウの置いていったものをひとつとして処分することなく、ほぼその ままの形で。
ここまで想われて悪い気はしない。
けれどそれを云ってやることはなく、ラウはムウの腕を解くとベッドから降り立った。
「ラウ?」
そうして振り返ることなくリビングへ向かうラウを、ムウはあわてて追ってくる。思わず苦 笑しながら、ラウはいつもの席についた。
テーブルの上にはパンやサラダといった定番の朝食が並んでいて。キッチンからムウが いそいそと運んできたコーヒーを受けとり、2人は以前と変わらぬ形のままの朝食をとった。
ムウはしっかりと、ラウは少なめに、そうしてムウがラウに食べるように促す、そんなと ころも以前となんら代わりがなく、離れていた時間などなかったかのように彼らはそこに あった。
食後のデザートと称して、テレビを見ながらヨーグルトを食べているとき、部屋のベルが 鳴った。
平日のこんな時間に一体誰が、と呟くムウに代わってラウが立ちあがる。
「私が出よう」
ラウには相手に心当たりがあった。
思ったよりも遅いものだなとひとりごちて玄関に向かうラウを、ムウの心配そうな目が 追う。仕方なしに振り返り、ラウは小さく笑った。
「大丈夫だ。私がいいというまで、お前はここにいろ」
ムウが頷くのをみとめると、ラウは今度こそ玄関へと向かう。その向こうでは、訪問者 がしつこくベルを鳴らし続けていた。この部屋に誰がいるかを確信しているかのように。
この向こうにいるのは、おそらくラウの保護者であるパトリックの部下であろうとラウ は考える。
昨日、やっとひとりでの外出を許されたラウが突然に消えたのだ。1日経っても家に戻ら ないラウを、パトリックがなんとしてでも探し出そうと手を尽くすだろうことは目に見 えている。
有能で機械的な部下か、ラウとも多少気が知れたパトリックの秘書かは定かではない が、それぞれの場合の対応を頭の中でシュミレートしながら、ラウは扉を開く。
しかしそこに立つ予想外の―しかしある意味では予想通りの人物の姿に、ラウは苦笑を 禁じえず、そのまま笑顔を浮かべて彼を迎え入れたのだった。




それから10分ほど経ったろうか、ラウがリビングに戻ったとき、ムウは 先刻と同じ場所同じ体勢でそこにいた。
まるで犬だ、内心笑うも、ラウからのなんらかの言葉を待っているらしい ムウにラウは声をかけた。
その声音に混ざった楽しげな色にムウが気づいているかは定かではないけれど。
「ムウ、少し来てくれ。会わせたい人間がいる」
「なぁ、ラウ。今来てるのってもしかして……」
さすがにムウも、状況的に誰がラウを尋ねてきたのか予想がついたのだろう。わず かに不安げな顔をするムウに、ラウはなんでもないことのように云ってのけた。
「そう心配するな。少なくとも殺されるようなことはないだろう」
「……なんだよ、それ」




玄関に向かったムウの前には、思いもよらない人物がいた。
ラウの保護者がなんらかの有力者だろうということは予想がついていたけれ ど、まさかこれほどの大物だなんて考えるはずもない。
ラウに腕を引かれて我に返ったムウを、ラウの保護者――パトリック・ザラ は訝しげな目で見ていた。
パトリックといえば、毎日のように新聞やニュースに取りざたされている政 治家で。なるほどそれでラウはあんなパーティに参加したうえ、あの場の中 心にいたわけだ、と考えると同時にムウは深く納得したのだけれど。
「君が、ムウ・ラ・フラガくんか?」
「えっ、あ、はいっ」
なんの挨拶もなしに名指しで呼ばれ、ムウは思わず硬直する。
パトリックの値踏みするようなきつい視線が痛い。
「あ、あのー……?」
「なるほど、君がフラガ氏の嫡男とはな」
ぽつりとパトリックが零した言葉に、ムウはわずかに顔をしかめた。いくら同 じ姓だからといって、ムウとムウの父を結び付けられる人間は少ない。
なぜそのことを、と問いかけようと口を開いたムウを遮るようにラウが一歩進み出る。
「どうです、悪い人間ではないでしょう?」
気づけばラウは笑っていた。
いつもムウに見せる笑顔ではない。いつかのパーティ会場で見た 笑顔だ。それはとても綺麗だけれど、どこかラウらしくないとムウは思う、そんな笑顔。
彼はいつも、パトリックの前ではこんな顔をしていたのだろうか。
そんなことを考えているムウの前で、しかしどういった経緯からか、話はかなり の早さで先に進んでいるようで。
「お前がそこまで云うのならばそうなのだろう。――わかった、大学卒業まで だ。それ以降のことは、わかっているな?」
「ええ、もちろんです。ご用とあらばいつでもお呼びください。私はすぐに あなたの元へ参りましょう、パトリック」
その言葉に、パトリックは厳しかった表情をわずかに和らげた。
それは彼の望む言葉だったのだろう、手を伸ばし、パトリックはラウの髪 に触れた。ゆっくりと髪を梳くその手つきは優しいもので、彼がいかにラウ を大切にしていたかがムウにはよくわかって。
促されるように、ラウがパトリックの頬にキスをすると、彼は今度こそ嬉 しそうに目を細めたのだった。




やけにあっさりと帰っていったパトリックの姿を部屋の窓から眺めながら 、ムウは思いきり首を傾げた。
一体今のはなんだったのだろう。
パトリックは、勝手にムウの元へ帰ってしまったラウを連れ戻すつもりで 来たはずだ。激怒していてもおかしくはない状況だというのに、彼は多少の 間ムウの顔を見ただけで別段なにをするでもなく帰ってしまって。
ムウの知らない10分間に、ラウはパトリックとどんな会話を交わしていたの か、疑問に思わないわけがない。
「なぁ、ラウ。どういうことだよ?」
「どう、とは?」
ソファに沈むように腰かけ、食べかけだったヨーグルトを悠々と口に運びながらラ ウは上目遣いで首を傾げる。しかしムウがなにを云いたいかはお見通しのようで、その 目はからかうように笑っていた。
「そう難しいことでもない。在学中は自由である代わり、その後を彼に 尽くすと、そう約束しただけのこと」
「なんだよ、それ……?」
ラウと共にいられるということ、それは単純に嬉しいけれど。しかし、ラウ がその後の人生の自由を失っては意味がないのではないか。
ムウは確かにラウを望んだけれど、そんな未来を求めたわけではないのだ。
「それじゃあお前、今ここにいることだってなんの意味もなくなるじゃないか」
「ムウ?」
「未来は先に決めるものじゃない。自分の手で切り拓いていくもんだろ?」
「――ムウ」
ムウの言葉を止めるように、ふいにラウの顔から笑みが消える。ラウはいつになく真剣 な目でムウを見上げていた。
「ムウ。お前は、約束された未来を信じるか?」
「信じない」
「だろうな」
ムウの即答に、ラウは唇の端をわずかに上げた。そうしてムウは悟る 。この不自然な会話の意味を。
「……お前、まさか戻らないつもりなのか!?」
「人聞きが悪いな。『未来は自分の手で切り拓いていくもの』なのだろう?」
あっさりと云い放つラウに、ムウは思わず頭を抱えたくなった。
まさか彼は、その口先で丸め込んだというのか。あの、パトリック・ザラを。
「お前、いい性格してるなぁ……」
「別に偽りを告げたわけではない。その未来もまた私の望むもののひとつであ るのだから。だが、それが必ずしも実現するとは限らないと、それだけのことだ」
今のために未来を捨てるような真似をするわけがない、とラウは云った。ラ ウはラウで考えがあってパトリックにそのように申し出たのだろう。
それは今までのラウとは異なりどこか吹っ切れたようにも見えて。ラウはこ れまでに、未来を語ることなどなかった。そこにある現実をただ受け止め て、なすべきことのみを遂行しているだけだったのに。
「お前、変わったな」
思わず呟いたムウに、ラウは皮肉げな笑みを浮かべ、わざとらしい流し目を送ってみせた。
「――誰のせいだと思っている」
ムウは笑い、自らの未来を歩み始めた愛しい人を抱き寄せた。





What is done cannot be undone.

やってしまった事は取り返しがつかない





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