07. Don't put off till tomorrow what you can do today.
普段より幾分か重いスーパーの袋を手に、ムウは昼間の住宅街を歩き進めながら苦笑した。 運良くタイムサービス時に飛びこんだはいいが、当初の予定以上に野菜や肉などを買い こんでしまった。冷凍食品は日持ちするからいいとしても、生ものはなるべく早く片付 けなければならないというのに。 「ひとりで食いきれるかな、これ……」 これほどに物を買いこんだのはそういえば久し振りだ。ラウが出て行ってからは当 然のようにひとり分の買い物しかしてこなかったから。 安いからといって思いきりすぎたか、とムウは少々後悔するも、これだけあれば誰か友 人を家に呼んで食べさせればいいかとも思い直した。 大学に入ってひとり暮らしとなるつもりが、実際に春が来て始まったのは同居生活で。 2人での生活の方が断然長かったから、当初の予定通りひとり暮らしに戻り、それに慣れ るのにはいたしかたないとはいえ少々の苦労がいった。 ――そうだ、あの頃はラウがいたのだ。 いつか2人で歩いた道を、今ムウはひとりで歩いている。 平日の昼間、しかもこんなに早い時間に家への道を歩くことは珍しいことで、人気のな い静かな住宅街の中を、ムウは新鮮な気持ちで歩く。 この日は偶然午後の講義が2つも休講になってしまったのだが、たまにはこんなのも 悪くない。そう思いながら、何気なく空を見上げた。 だいぶ冷たくなった空気の向こうで、空は澄んだ青を広げていた。 そうして視線を下ろし、さて帰って課題でもこなそうかと気を取り直す。 ――と。 「……え?」 どさ、となにかが落ちる音がしたけれどそこまで気が回らなかった。 ただ目の前にある信じがたいそれに目を奪われるのみで。 嘘だ、声に出さずに呟いた。嘘だ、そんなことがあるはずがない。けれど本当であって ほしいと思う自分も確かにいて。信じられない。けれど、それは間違いなくそこにあるもので。 自分がどう考えたいのかなにを信じたいのかわからなかった。 それでもわかるのは、どうやら目の前のそれが現実であるらしいということだけで。 夢ではない。幻でもない。 これは、本当に本物なのだろうか。 「――ラウ!」 気づいたときには、風景が変わっていた。 明るい通りから彼の手を取りすぐ脇の小道に入ったらしいが、咄嗟のこととはいえ自 分で自分の行動に驚いて、これでは変質者か犯罪者だとムウは頭を抱えかけた。 それでも離れられないのは、目の前に現れたラウが、今はムウの腕の中にいるという これが現実だと理解できたからで。 半ば無理矢理に背を壁に押し付けられ、ラウは驚いたような顔をしながらも逃げようと はしなかった。 なぜ彼がここにいるのか、ムウにはわからない。 わからないけれど、ここにいるのが確かにラウだという、それだけのことでこんなに も胸が高鳴って。 あの日、あのパーティ会場で手を伸ばしそこねた大切な人が、今こうして自分の腕の中にいる。 「ラウ……本当に、ラウなんだよな?」 「……お前は知らない人間を裏路地に連れこむのか」 それではただの変質者だぞ、としれっと言い放つ、これがラウでなくて誰だという。 やわらかな金の髪に指を滑らせ、ムウは確かめるようにラウの頬に触れた。しばらく会っ ていないというのに、彼はこんなにも変わらない。 例のパーティでは見たこともないような笑みを浮かべていたけれど、ここにいるのは紛れ もなく、ムウの望んだラウ・ル・クルーゼその人だった。 その瞳に、指先に触れるぬくもりに、今さらのように実感がわいてくる。 同時に覚えのある衝動にも襲われ、けれどムウはそれに逆らおうとはしなかった。 ラウの頬に触れたまま、もう片方の手で彼の腰を強引に引き寄せる。 「ム……っ」 言葉を遮り、吐息さえも飲みこむようにムウはラウに口づけた。夢中だった。なにも知らな い子どもでもないというのに。 貪るようなそれをラウは拒もうとはせず、真正面からムウを受けとめていた。 「……まったく、お前は」 しばらくしてようやくムウが離れ、ラウは深く息をついた。呼吸が乱れて仕方がないのは間 違いなくムウのせいなのだけれど、ムウは悪びれることなくラウを抱きしめた。 「うん、やっぱりラウだ」 変わっていない。やはり、ラウはラウだ。 そういえば抱きしめた身体が以前より少し細くなっているように感じる。あのときの予想通 り、彼は痩せてしまったようだ。つい先刻、ちょうどたくさんの食材を買いこんだばかりな のだから、ラウのために美味しいものを、嫌味なほどにたくさん作ってやろう。豪勢な食事 の前に、ラウが見ただけで胃もたれを起こしたような顔をするのが容易に目に浮かび、ムウ は内心笑う。 しかし、今さらになって今の状況を思い出し、ムウはぎくりとした。 ラウの身体を離し、けれど両肩に手を置いてその顔を正面から見据えた。 「……ムウ?」 「ラウ、お前もしかして……」 ここで出逢えた理由はわからないが、逢えたからといってラウがムウのところに戻ってきた というわけではないのだ。 「……戻るんだよな、お前。帰ってきたってわけじゃ、ないもんな」 そうだ、ラウはムウの元に帰ってきたなどとは一言も云っていない。偶然このあたりを 通りがかっただけかもしれないというのに、なんて考えなしの早とちりをしたのだろう と、どうしてこう自分は馬鹿なのだろうとムウは苦笑した。 ラウはそんなムウをただ見つめていて。 思わず涙まで浮かびかけたムウは、困ったように笑い、首を振った。こんなところでま で、ラウに格好悪い姿を見せたくはなかった。 ラウを引き止めなかったのも、追いかけなかったのも、連れ去っていかなかったのも、全 て自分が決めたことで。 だから、今になってラウに云うべきことなんて、ムウにはひとつとしてありはしないのだ。 しかしラウは、突然にムウの顔を両手でがっちりと固定したかと思うと、その顔をのぞ きこんだ。 今にも唇が触れ合いそうな距離から見つめられ、ムウは思わず目を丸くする。 そうしてラウは、いつかと同じようにくすりと笑い、変わらぬ笑顔を浮かべて、呟いた。 「お前はここで私を手放せるというのか?」 数秒後、我に返ったムウはラウをがむしゃらに抱きしめた。 |