03. It is no use crying over spilt milk.
決めていた。次に彼と目が合ったら、この想いを告げようと。 マンションのエレベータ内、点滅する階数を見つめながら、ムウはきゅっと手を 握り締めた。こんなに緊張するのは、最近だと大学入試の面接以来かもしれない。 大学――そう、あの大学に入らなければ、あの日にあの不動産屋で契約をしな ければ、彼とは出逢わなかったかもしれないのだ。それくらい、あのときの 彼と自分には接点がなかったのだから。 思えば、様々な偶然の上に現在の自分たちがるのだと改めて感じさせられる。 いつから自分はこんなに変わっていたのだろうとムウは思う。 最初は興味半分で始めた同居だった。面白いやつだとそう思いながらも、あの部屋 の所有権は自分にあるのだからなにかあればすぐに追い出せるとそう考えてい た。事実、出て行ってもらおうと思ったことは一度や二度のものではない。 それくらいにラウは、わざとじゃないかと思うほどにマイペースで、ムウは彼に 振り回されっぱなしだった。 それがいつからだろう、気づけばラウのワガママにも慣れ、かえってそれが 心地の良いものになっていたのは。 そんな自分がどうかと思わないでもなかったけれど、結局のところこの結論に たどりついたのだから、ある意味では結果オーライともいえるのかもしれない。 「……よしっ」 部屋の扉の前で、ムウは一度深呼吸をして気合を入れなおす。 いつもと変わらない表情をと努めながらも、頭の中は妙な混乱でパニックに近い状態 になっていた。 いつもと同じ、変わらない一瞬のはずだった。扉を開ける。靴を脱ぐ。部屋に上がる 。それだけの行動でなぜ視界がぐらつくのだろう。 いつもと変わらない部屋、なにひとつ、物の置き場も変わっていないと いうのに、全く知らない場所にいるような気さえするのはなぜなのだろう。 ここがどこかさえわからなくなりかけた頭でありながら、しかし確かに この部屋が自分たちの部屋だとわかったのは、リビングのソファで本を読ん でいるラウの姿を見たからだ。 ラウのもつ物静かで涼しげな雰囲気が部屋には満ちていた。ラウの匂いがす る、そんな感じがした。 入り口に立ったまま動かないムウを不審に思ったのか、本から顔を上げてラ ウはちらりとムウを見た。 ――ラウと、目が合った。 淡く輝く金の中、2つの澄んだ蒼がムウを射る。 ああ、この色だ、そう思った。自分が望んだのはこの色だ。なによりも失い がたく、初めて自身より強く大切にしたいと思った色。その色が自分を見て いる、自分の姿を映し出している、その事実だけでこれほどまでに胸が熱くなる。 だから、その瞬間の衝動はとてもじゃないけれど抗えるものではなくて。 「――っ、ムウ!?」 頭が真っ白になったところまでは覚えている。 気づいた瞬間、どういうわけかムウの腕の中にはラウがいた。 「好きだ」 勢いのままに呟き、どれほど時間が止まっていたかはわからない。 数瞬後に我に返り現状を理解したムウは、内心では思いきり焦っていた。ラウは 暴れるでもなく大人しくムウの腕の中で立ち尽くしていて。 それに気づいたとき、ムウは心を決めた。 きつく抱きしめていた腕を解き、けれど身体が離れる前にラウの両肩をつかんで その顔を覗きこむ。 呆れたような顔をしながらも驚いている様子のその表情を真正面からしっかりと見据えて。 「お前が好きなんだ、ラウ」 だって伝えずに終わるなんて考えられるわけがない。 いつものようにムウが帰ってきたのだと、そう思っていた。 けれど、リビングの入り口でわけもなく立ち尽くしていたらしいムウを訝しん でそちらを見てみれば、ムウは妙に真剣な顔でこちらを凝視していて。 どうしたのか、そう尋ねようと口を開きかけたそのときのことだった。 いつもは一方的にする帰宅の挨拶もなしにラウの前に歩み寄ったムウは、ラウの手 を力任せに引いて立ち上がらせ、体勢が整う前に腕の中に閉じこめた。 「――っ、ムウ!?」 抵抗することもできないままに動きを封じられ、どうしたものかと眉を寄せたラ ウの耳元で、ムウは小さく、しかしはっきりと呟いた。 「好きだ」 わずかに震えたラウの肩に、ムウは気づいていないだろうと思うのだけれど。 ムウの声が耳から身体中を駆け抜けて身動きが取れなくなる。なにを馬鹿なこと を、そう云いたいのに頭の中が痺れたように口が開かなかった。 早くこいつを突き飛ばさなければ、確かにそう思うのに。 抱きしめられた腕がふいに解かれ、しかしすぐに両肩をつかまれ再び拘 束される。今さらのように抵抗する気もなく、ラウはただムウの行動の先を見つめていた。 ムウは真正面からラウを見据えた。 瞳の青は空色のそれを思い出させる。今までこんな風にラウを見てきた人間はい なかった。様々な感情の色がある中、ただ真っ直ぐにラウを見つめていたのはムウだけだった。 けれど今、その色の中に妙に必死な様が見えてラウは内心苦笑した。 一体彼はなにをそんなに焦っているのだろう。まさかここで自分が消えてしまう と思っているわけでもあるまいし。 ラウの心をムウが、ムウの心をラウが知ることはないだろうけれど、きっとそれで 良いのだとラウは思う。知らないからこそ、伝えることによる喜びや苦しみがあるのだから。 そしてムウは、ラウから決して目を逸らすことなくゆっくりと告げた。 「お前が好きなんだ、ラウ」 ラウはくすりと笑うと、ムウの襟首を無理矢理引き寄せ、彼の唇に自らのそ れを重ね合わせた。 目を丸くさせて呆然と見返してくる瞳に、ラウはまた小さく笑う。 だってあんな目で見つめられて拒めるわけがない。 翌朝、目覚めたムウは隣に眠るラウの姿を認め、これが紛れもない現実と知る。 気だるい身体も幸せな記憶も確かに自分自身のもので、それは否定されがたく否定し たくもないものなのだけれど。 「……とうとうやっちまったか」 思わず小さく、ごく小さく呟いたムウの耳に、覚えのある声が飛びこんで きたのはその直後のことだった。 「後悔しているのか?」 いつの間に起きていたのか、ごく近い位置から見つめてくる蒼にムウは思わず息を呑む。 拗ねたような色さえも見えるその様に、朝からこれを見るのは少々刺激が強すぎ るのではないのかと思いながらも、ムウはラウに笑いかけた。 「そんなこと、あるわけないだろ」 |