02. Entering the room,he found him sleeping.
夜も更け、日付も変わろうかというころ、人も車も途絶えた通りをムウは足早に通り過ぎた。 「げっ、もうこんな時間かよ」 今日は予想外のバイトが入ってしまい、帰る時間がかなり遅くなってしまった。本来 ならば夕方には家に帰っているはずが、気づけば日はとっぷり暮れていて。 夜は時間があるものだと思っていたから、この日に面倒な発表を終えるという同居人の ためにご馳走を作ってねぎらってやろうと思っていたのに、これでは予定がパアだ。 ムウの頭の中は、気づけば買いこんだ食材を明日以降どう使って行こうかという計画 に変わっていた。 肉も野菜も今のところたっぷり買ってあるから、大抵の料理は作れるだろう。 朝食を滅多に食べず、目を離せば昼食すら抜きがちになる同居人にしっかりと栄養を取ら せるために、いかに効率よく肉と野菜を使うかというところがムウの腕の見せ所になる。 「あいつも、出来るくせにやらないからなぁ……」 彼らの家での食事は、主にムウが作ることになっていた。それは定められたものではない のだけれど、食事は必要最低限の栄養さえ取れればいいと考える同居人のラウと、楽し く美味しくとりたいと考えるムウとがそこにいれば、ムウが率先して台所にたつことも 自然となるだろう。 ラウにも以前料理を作らせたことはあるが、そのときの腕前はなかなかのものだ ったとムウは思う。 あとは彼自身が、なにかしらであっても食べたいと思うようになればムウとし ては安心なのだが、ラウの考えはまだ変わりそうもないのが難点だった。 「まぁそれでも、俺の作ったものは食べるようになったしな」 最初の頃はムウの手料理にはほとんど手をつけようとしなかったラウだけれど、 最近はムウが作る夕食を渋々ながらも食べるようになったのは大した進歩ではないだろうか。 少しずつでもこれから変わっていけばいいことだと、極めて楽天的なことを考え ながら、ムウは自宅マンションのエントランスに駆けこんだ。 顔見知りの警備員に軽く挨拶をして、エレベーターに乗りむ。 この時間では、ラウはもう眠っているだろうか。そうでなければ、夢中で本を読ん でいるのかもしれない。家に勉強は持ちみたがらないくせに、ラウは自分の興味の ある本だけは大量に持ちこもうとする。自分の趣味だと云っていたが、ムウにと っては小難しい本を読むことも勉強をすることも大した違いはないと思うのだけれど。 「ただいまー」 部屋の扉を開けると、暖かな空気が流れ出てきて。暖房が逃げる、と呟きムウは慌てて扉 を閉めた。 リビングの明りがついているところを見ると、ラウはまだ起きているのだろうか。そ れにしては気配を感じないなと首を傾げながら、ムウは部屋に上がった。 「ただいま。ラウー? ……って」 明りがついたままの部屋。リビングの床に落ちた本。そして、ソファに眠る同居人の姿。 どうやらラウは、ソファに寝転んで本を読んでいてそのまま眠ってしまったらしい。珍 しいこともあるものだと思いながら、ムウは隣の部屋から毛布を一枚持ってきてその身 体にかけてやる。 それほどに広くはないソファで疲れないものかと思うが、ラウは器用に背中を丸めていた。 頬にかかった髪を払ってやるとわずかに身じろぎをしたものの、すぐに再び穏やかな寝息 が繰り返されることになる。 こんな風に、ラウが無防備に眠るようになったのはいつからのことだろう。 食事や睡眠時間等に無頓着であるはずのラウは、しかし人の気配には人一倍敏感で。ムウ に慣れるようになるまでは、夜中に喉の渇きを覚えたムウが起き上がっただけで目を覚 ます、などということもあった。偶然見かけたラウを驚かしてやろうと黙って後ろから 近づいてみても、あと少しというところで振り返って冷たい目線を向けるのが常で。 そんなラウが、こんな風に穏やかに眠る姿をムウの前にさらすようになったのはごく最 近ではないかと思う。 理由などはわからない。けれど、それでも自分の存在が彼の中で多少変化しただろうこと 、それだけはわかって。 声をかければ振り返ってくれる、料理を作れば食べてくれる、話をすれば、ときには笑 ってくれる。 そんな些細な変化が嬉しくて仕方ないのはなぜなのだろう。 手負いの猫を手懐けるのとよく似た、けれど全く違うこの状況の中で、日に日にラウ に関わることの比率が大きくなっていくのを感じる。 ラウにとって邪魔な存在でなければそれでいいと思っていたのだけれど、今はどうだろう。 「ん……」 なにか夢でも見ているのか、小さく唸るラウの顔を見下ろし、ムウの口元は思わず緩む。 普段は他人を寄せつけない雰囲気を保っているラウが、ひとたび眠りにつくとこれほ どまでに幼く可愛らしく見えてしまうのはきっとムウの気のせいではない。 ムウの前でのみ見せる姿であるのならばそれにこしたことはないけれど、そうでなくて も今ラウのこんな表情を見られるのは自分だけだ。 ラウにとってはそうではないかもしれないけれど、ムウにとってはそれがとても特別な ときのように思えて。 ラウが床に落とした本を拾って、すぐ横にある背の低いテーブルに置いたところで、ム ウはテーブルの上にもいくらか物が乗っていることに気づいた。 それは、ラウの夕食の残りのようだった。 食べきれなかったのかそれとも本に夢中になって食べるのを忘れたのか、いくらか残 っている皿の中身を見て、ムウはわずかに目を見開いた。 それは、ある意味ではなんの変哲もない料理だったのかもしれない。 肉や野菜を適当に切って炒めて混ぜただけのような、そんなものであるのに。 栄養をしっかりとるためにとムウが日々口をすっぱくして云っていた材料そのまま がそこには入っていた。 以前のラウであれば、冷蔵庫にあるそのままで食べられそうなものを適当に食べてお腹が ある程度膨れればそれでよい、と考えていたはずのところを、今日のラウは自 らが台所に立って料理をしたのだろう。 一般的に見ればごく自然な風景の中にラウが立っているという、そんな状況を思 い浮かべるだけでなぜこんなにも嬉しいと思ってしまうのだろう。 けれどそれは、ムウの望みだけでなく実際にそこにあったであろうもので。 ラウにとってはほんの気まぐれかもしれないけれど、ムウにとってはある意味で大事件だった。 あのラウが、自分によって変わっていく。そう思うだけでなぜだか胸が熱くなる。 その答えを求めるには、まだ少々時期が早い気はするのだけれど。 穏やかに眠るラウの顔を見つめ、ムウは一度静かに微笑みかけると起こさぬように気をつけながら ゆっくりと立ちあがった。 |