01. I heard someone calling my name.



「ラウ!」
大学の構内、正門をくぐってすぐの広場に朗らかな声が響く。
振り向かずとも声の主が誰かはわかっており、ラウはあえて気づかないふりをし て歩き続けた。
こんなところであんなやつのために時間を潰してやるいわれはない。
「おーいラウってば。ラウ・ル・クルーゼ!」
しかしそれでも相手は諦めようとはしなかった。名前を連呼され、周囲の目が自分 に集まるのを感じ、ラウは一瞬だけ顔をしかめた。
ただでさえ、自分を快く思わない人間たちによる面白くもない噂が横行しているの だ、キャンパス内で男に追いかけ回されるなどという格好のネタをむざと提供してや るつもりはない。
周囲から見ればそんな光景は今さらのものではあったのだが、ラウはまだそれに気 づいてはいなかった。
仕方なしに足を止めたラウに、それまで声を張り上げていた男が駆け寄ってくる。
「あー、やっと止まってくれた」
そう云ってラウの行く先を塞ぐように前に立ったのは、ムウ・ラ・フラガという 男で――現在のラウの同居人であった。
この春、不動産屋のミスによるダブルブッキングのために彼らの同居生活が始まった。
当初こそは、生活の違いによりすれ違いと衝突(これは半ばムウからの一方的なも のであった)が頻発し距離を置いていたこともあったけれど、いつからかム ウが妙にラウを構いだすようになり。
特に不利益でもなかったためにラウはムウの好きにさせていたのだが、家でなに かとラウの世話を焼きつくしたムウは、ついには学校でもラウに声をかけ始めたのだ。
「……なんの用だ」
「えぇと、なにっていうか……」
理由もなく声をかけるやつがあるか、とラウはわずかに眉を寄せた。
ムウはいつもこうだ。ラウを見かければ犬のように寄ってきて、意味もないことを ニ・三話して去っていく。
「そうだ、昼飯一緒に食おうぜ」
今は昼休みだしな、と思いつきのように口にするムウに、しかしラウ の反応はあっさりとしていた。
「無理だ」
「なんでっ」
「これから教授との約束がある」
「……またかよ」
学内のラウでの過ごし方は一般的な生徒とは少し変わっていて、時間が あれば図書館にこもり、教授や講師に約束を取りつけては質問に行っているという。
本人曰く、家でまで勉強をしたくないとのことらしいが、ムウや他の連中からすれ ば、それはガリ勉かとんでもない優等生にしか見えない行動で。
ムウの誘いは大抵そんな理由で断られているためか、彼はあからさまにがっかりした 顔をし、わざとらしく肩まで落としてみせた。
「じゃあお前、いつ昼飯食うんだよ?」
「……次の講義は空いている。昼休みが終わってからゆっくり食べるさ」
投げつけるようなラウの言葉に、しかしムウはぱっと顔を輝かせる。
「俺も次休講なんだ! ちょうどいいじゃん、一緒に食おうぜ」
「おい、ムウ」
「一号館のカフェテリアでいいよな。そこで待ってるから!」
早口にまくし立て、ムウは「じゃっ」と片手を上げるとラウの制止も聞かずに笑顔 で去っていった。
なぜあんなやつの云うことを聞かねばならない、とラウは顔をしかめるも、約束 の時間が近付いていることに気づいて目的地へと歩きだす。
それによって、こちらに集中していた視線がさっと散っていくのがわかった。
ムウが近寄ってくるといつもこうだ。
ラウとしては、この大学生活において特に目立ちたいわけでも遊びたいわけでもな く、ただ静かに適度に勉強ができればそれでよいのだ。
しかしそれをいくら云ってもムウは人目をはばからずラウに声をかける。
家でいつでも顔を合わせているというのに、それ以外の場所でわざわざ相手を見る 必要性などどこにあるというのか。
いつかムウにそう尋ねたとき、ムウは困ったように首を傾げていた。
『だってなぁ……顔見たら声かけたくなるじゃん。せっかくそこにいるんだし』
そう云って笑うムウの顔は無邪気なもので、ラウはそれ以上追及することができな くなってしまったのだけれど。
今まで、こんな風に特に理由もなく話しかけてくる人間はいなかった。
何度か話そうと試みているらしい人間はいたけれど、ラウの徹底した拒否によりみなし ばらくして離れていった。ラウの望むとおりに。
それが、ムウはどうだ。
彼と同居を始めてから、ラウは随分とワガママを云った覚えがある。
それは出逢ったときのムウのラウを試すようなからかいの言葉に対する仕返しのよ うなものではあったが、ラウは自分でも驚くほどに好き勝手なことを云っていた。
そのため、同居はすぐに解消されるものと思っていた。
ラウに嫌気がさしたムウによって追い出されるとばかり思っていたのに、気づけ ばラウとの同居は3ヶ月近くも続いていた。
あの部屋はムウのものでありその気になればラウを追い出すことなどすぐにできるというのに。
それでも同居を続けているということは、ムウはよほどのお人好しか、でなければ マゾか変人だとラウは思っている。
しかし、実のところ妙だと思うのはムウ以上にラウ自身についてであって。
赤の他人、しかも初対面の人間と共に住むなど、それまでのラウにとっては考えら れないことだった。
例え共に暮らしたとしても、しばらくムウをからかい続けた挙句に追い出されるか、 自身が同居生活に嫌気がさして出て行くかのどちらかとなるのだとばかり思っていた のに、気づけばムウはラウのワガママにも慣れてくるし、ラウはラウで新しい部屋を 探すことをすっかり忘れていた。
ムウとラウが親しいのかと、仮に問われればラウは即座に否と答えるだろう。しか し、ムウがどうなのかはわからない。
あっさりそうだと認めるか、困ったように笑って言葉を濁すか、それともラウと同じ ように違うと答えるか。そういった予想が定まらないのが、ラウから見たムウ・ラ・フ ラガという男だった。
基本的には単純なのだろうとは思う。けれど、その単純さこそがラウにはわからない。
それでも、ムウと共にいることに息苦しさを感じたことは一度もなかった。それはき っと、ムウがラウを前に一歩も引くことがないからだろう。
ムウがいつもありのままでラウの前にいるから、ラウも気兼ねなく自分を出している のではないかと、そう思う。
そういえば、先刻も云わなくてよいことを云ってしまったと、今さらながらにラウは気づく。
昼食などそれぞれが好きな時間にとればよいものを、なぜムウに自分の空き時間 を教えてやったのだろう。
「……期待でも、していたのか?」
なにをだ、と知らず呟いてラウは静かに笑う。
約束の時間まであと数分、ただでさえ忙しい教授に逃げられる前にとラウは 足早に階段を駆け上がっていった。
ふと、今日の昼はなにを食べようかなど、そんなことを考えながら。





I heard someone calling my name.

私は誰かが私の名前を呼んでいるのを聞いた





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