散 歩




それは、なんでもない一日のはずだった。
冬に入り、空気の冷たくなってきた時期ではあったけれど、あまりにも澄ん だ空の青に魅かれるように、幸鷹は街へ出た。
街の中は常と変わらずに、いや、この日は日曜であるためか買い物客や家族連れ、 カップルなどでいつもよりも賑わっていた。
こんな中で買い物をするとなるとひどく気が滅入るだろうけれど、しかしなんの目 的もなく雑踏の中を歩くことも、ときには面白いのではないかと幸鷹は思う。
翡翠はよくこんな風に街を歩いているというが、そういえばいつもは気づかないな にかに出逢うことも、このように気楽にふらついているときが多いのではないだ ろうか。
確かにこんな日は、なにかが起こりそうな予感がして、少しだけ気持ちが高揚 しているようにも思えて。
「譲!」
「うわっ」
突然に真後ろから伸びた腕に身体を拘束され、幸鷹は反射的にその腕を力の限 り振り払った。また翡翠のいたずらかと、その瞬間はそう思っていたのだけれど。
こんなところでなにを――と、いつものように翡翠を叱咤しようと振り返った 幸鷹の前にいたのは、しかし翡翠とは違う全くの別人であった。似ているとこ ろがあるとすれば、真っ直ぐな長い髪の男だということくらいで。
その青年は、にこにこと笑って幸鷹の前に立っていた。見た目の年齢よりも、ど こか純粋というか幼くも見える笑顔に、幸鷹の勢いは瞬く間に削がれてしまった。
それよりも彼の間違いを正すのが先だと思い返し、幸鷹は青年の顔を見返して告げる。
「……あの、人違いではありませんか?」
「え?」
幸鷹の言葉にきょとん、とした顔になったその人は、まるで小さな子どものよう だった。首をかしげると、緑がかった銀の髪がさらりと肩にかかる。翡翠の髪も 不思議な色合いをしているけれど、この人の髪はまた見たことのない輝きを見せ ていて。
外国人だろうかとも思ったけれど、しかしこの顔立ちなら日本人だろう。それで もチャイナ服を思わせる服を着ているためだろうか、一般的な日本人とはどこか 違うような雰囲気にも思えて、幸鷹は思わずその人をじっと見つめてしまって いた。
その人もまた、驚いたようなしかしどこか真剣な眼差しで幸鷹を見つめ、ふた りは図らずも見つめあうような格好になってしまっていて。
「あなたは、誰?」
ふいにその人が口を開く。
その声は歌うように響き、幸鷹を見つめるふたつの瞳は凪いだ大海に揺れる日の 光のように、琥珀めいた不思議な輝きをもってそこにあった。
「あなたは、譲ではない。でも譲と同じ気を持っている。その気をもつあなたを、 わたしが知らないはずがない。――譲と同じ気を持つ人、あなたは誰?」
誰、だなんて。そんなことはこっちが知りたい、と幸鷹は思った。彼の云う譲な んて人物を自分は知らないし、初対面の相手に礼もなく何者かなどと尋ねられる いわれはない。
しかしその人の言葉はどうしてか胸に突き刺さるような感覚を幸鷹に与え、涼や かな声が頭の中で反響する。
私は誰だ――それは、かつてもうひとつの人生を歩んだ地で幸鷹にが抱くことと なった重い鎖。封じられ歪んだそれは、だが永遠に幸鷹を縛ることはなかった。全て を取り戻し、かりそめであり現実でもある世界を捨てた幸鷹は、生まれ育った世界 へと戻ってきた。
自分を産み育て、共に暮らしていた家族。そしてあちらとこちらの自分をどちらも 確かに幸鷹だと認めてくれる人たちがいて、だから幸鷹はこうして幸鷹のままでい られるのだ。
「私、は……」
琥珀の瞳が幸鷹を見つめている。吸い込まれるような色だと思った。翡翠とは違 うのに、惹かれてやまないと思うのはなぜなのだろう。自分は彼を知っているの ではないかと、そんな風にさえ思えるほどに。
幸鷹の心の内まで見透かすようなその瞳。不躾だろうその視線に、それでも不快 感を覚えることはない。懐かしいような感覚に幸鷹は彼の顔へと手を伸ばし――け れど、その手は頬に触れる間際で引き止められた。
誰かに、後ろへと抱き寄せられたのだ。
「往来の只中で逢瀬とは感心しないね、幸鷹?」
「翡翠!?」
そういう自分は幸鷹をがっちりと抱きしめているというのに、翡翠は常と変わら ぬ調子で幸鷹の耳元に囁きかけた。
こんなところでなにを、と今度こそ翡翠に対してそれを云おうともがくも、片腕 は身体の横で拘束され、もう片腕もまた翡翠に絡め取られて身動きがとれない。
離せと吐くように呟いても、翡翠がその程度のことで幸鷹を離すなんてことは当 然ありえることではなくて。
公衆の面前でこんなことをするなと叱りつけようとして幸鷹が息を吸いこもうと したとき、しかしそれよりも早く幸鷹に言葉を投げかけてくる人がいた。
「……翡翠? 景時と同じ気をもつあなたは、翡翠というの?」
彼は、今のこの状況をなんとも思わないのだろうか。少しくらい驚いてもいいだ ろうに、平然と首を傾げる姿に幸鷹は頭を抱えたくなった。
まあ、ここでどういう関係かなどと問われても、それはそれで困るのだけれど。
そんな幸鷹の想いを知ってか知らずか、翡翠は後ろから幸鷹を抱きかかえたまま 彼の質問にあっさりと答える。
「ああ、私の名は翡翠だ。ここに来てそれ以外の名を名乗ったことはないね」
「そう……」
その人は、目に見えて落胆していた。しゅんとなって肩を落とす姿は親に叱られた 幼子のようで、幸鷹は渾身の力で翡翠を振り払うと彼の顔を覗きこみ、安心させる ように微笑んだ。
「道に迷われたのですか? 大丈夫ですよ、お連れの方もきっと見つかりますから」
幸鷹の言葉に、その人はこくりと頷いた。
小さく微笑む様に、幸鷹はやはり不思議だと思った。どうして彼の笑顔が、これほ ど嬉しいと感じるのだろう。
どこかで彼に出逢ったことは本当になかっただろうか。翡翠ならばもしかしたら なにか知っているかもしれないと、振り返りかけたそのとき、ふいに飛び込んで きた声に幸鷹の前で俯いていたその人は弾かれたように顔を上げた。
「白龍!」
振り返るその人の目線を追うように、幸鷹も彼の後ろに目をやる。すると、人ごみ を掻き分けてひとりの少年が幸鷹たちの元へとやってきた。
「だめじゃないか白龍、ひとりで勝手に――あっ」
少年は幸鷹の前のその人を白龍と呼び、しかし彼の前に立つ幸鷹と翡翠を見て驚 いたように声を上げた。
驚くのも無理はない。その少年は、幸鷹とよく似た顔立ちをしていたのだ。高校生 くらいだろうか、伊予にいた頃の幸鷹とそう変わらない年齢だろうその少年は、な にかを問おうとしたのか口を開きかけたけれど、それでも気を取り直すように笑顔 を浮かべてからすまなそうに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしてすみません。はぐれてしまって、探していたんです」
ああ、やはりこの少年が、彼の捜していた『譲』だったのだろう。これだけ似てい たら、確かに遠目には幸鷹と区別がつかないかもしれない。
きっと『白龍』にとっては、それだけではなかったのだろうけれど。
「ほら白龍、行こう。本当に、ありがとうございました」
「うん。――さよなら、幸鷹。翡翠も」
にこりと笑いかける彼の向こうで、譲もまた幸鷹たちに会釈をした。譲が白龍の手を 引いて、ふたりは人ごみの中に紛れていく。
手を振って彼らの背中を見送りながら、幸鷹は心の中になにかあたたかいものが広が るのを感じていた。
「譲、譲、どこかから甘い匂いがするよ」
「ああ、クレープだね。先輩も食べたがっていたから、戻ったらみんなで食べようか」
「うん!」
そんな声が雑踏の向こうに聴こえなくなったころ、幸鷹の後ろに立っていた翡翠が どこか呆然としたような声で問う。
「……白龍と云ったようだけれど、彼」
それは懐かしい名前。聞けば、共に戦った仲間たちを思い出さずにはいられない、そん な名前であるはずなのだけれど。
「ああ。――いや、もういいんだ」
彼らの言葉を拾ってみれば、彼が、彼らが何者なのかは、想像するに難くない。と んでもない予想ではあるけれど、それでも今幸鷹がここにいられることを考えればあ ながち的外れな予想でもないのだろう。
「幸鷹」
翡翠の声は、問いけかのようにも促すようにも、呼びかけるようにも捉えることが できて。
翡翠の問いに、幸鷹が答えを与えることはできない。けれど、ふいにあの白龍と呼 ばれた青年の発した問いが脳裏をよぎり、幸鷹は小さく微笑んだ。
「――私は、私だ。例えどこにいようとも」
彼らがそうであるように、自分もまた、ここにいる自分以外の何者でもないのだ。
それを認められたいと思う自分がいる、認めてくれる人がいる、それだけできっと、幸 鷹は誰でもない幸鷹でしかありえないのだろう。
「帰ろう、翡翠」
「ああ」
振り返ると、翡翠は常と変わらない謎めいた微笑みでもって幸鷹を迎えてくれた。並ん で歩きだすと、いつの間にか幸鷹は肩を抱かれていたけれど、今は気分が良いから気 にしないでおいてやるとする。
こんな日に出逢えた彼らは、幸鷹の心にあたたかいものをひとつ残していってくれて。
――ああ、やはり今日はいい日だった。












- - - - - 以下、投稿時のコメントです - - - - - -



「錦上雪花天ノ宴」開催おめでとうございます!
初めての投稿、初めての遙かと、初めましてばかりの紗月と申します。


ある日、人が読んでいる女性向けゲーム雑誌を一瞬だけ覗いたときのこと です。緑色で長髪の男が女の子を抱きしめていたスチルがあり、思わず内 心で「翡翠かよ!」とツッコんでいたのですが、実はそれは『運命の迷宮』の白 龍スチルだったのです。だって白龍と翡翠って遠目にはそっくりです もの…髪形。同系色だし。
このとき受けた衝撃と、激しいまでの白虎萌えが相まってこんなものを書 いてしまいました。

幸鷹たちが住んでいるのは鎌倉ではないと思うので、おそらくは休日を利用 して譲と望美が白龍(たち?)を連れて幸鷹のいる街に遊びに行ったのでしょう。
偶然とは恐ろしいものです。

……実は遙かシリーズ未プレイだったりしますが許してください(笑)