闇に包まれたデュランダル邸は、昼に見るものとはまた違った美しさが 引き立てられ、恐ろしささえも醸しだしていた。
人のいない長い廊下、常に明るいはずの廊下でさえ昼とは異なる明暗に彩ら れ、レイはここへ来て初めて、この場から逃げだしたいと思った。
しかしそれでも、すくむ足を叱咤し、レイは廊下を歩いた。目指す先は決ま っていた。館の主以外の入室が禁じられた部屋。知らぬ誰かが今でも眠り 続ける部屋。
ギルバートだけが知る誰か、その人物の正体を知りたかっ た。知ってどうなるというわけでもない。その人物の顔を見たからといっ て、レイの知る人物であるという可能性は決して高くないのだ。これほ どまでに望んでも、そこにいるのはなんの関係もない人物かもしれない。
けれど、それでもレイは進む足を止めることができなかった。
慣れた屋敷の中を、真っ直ぐにレイは歩いていく。振り返ってはならない。前を 見据えながらも、それでも逸らしたくなる瞳をどうにか抑えて、ただ歩き続 けた。そうすれば、目的の部屋にたどり着くのにたいした時間などかかるはず もなく。
なんの変哲もないはずの扉であるのに、とてつもない圧迫感を感じさせ る、とレイは思った。
ここに入ってはいけないような、入らなければならないような、不思議な 感覚だった。この扉を押し開けたら、大きななにかが変わってしまうよ うな、なにも変わらないような、曖昧でつかめない感覚。
この部屋に入りたいと思いながらも、この扉に鍵がかかっていればいいと 思った。この扉の施錠の有無など、レイが知るはずもない。これまで一度 として触れたことなどなかったのだから。
けれど、あの慎重なギルバートのことだ、間違いなく鍵をかけているのだろ うと、自分はこうして期待をもってこの扉を開けるけれど、きっと鍵とい う壁にあたり引き返せざるをえないだろうと、そんな予測は確かにあった。それ 以外に考えられなかった。
けれどもレイは扉に手を伸ばす。開いていないだろうことを予測しながら、開 いていてほしいと願う。本当に自分は扉が開いていることを願っているの か、それすらもわからなくなる。
「……っ」
取っ手の金具に触れた瞬間に走った、電気にも似た感覚。ぴり、としたそれ は、まるでレイをここから追いやるように指先から心臓部まで走っていった。
しかしそれでも、かすかにどこか懐かしい感覚がよぎり、レイはいったん離 した手を再び取っ手に伸ばし今度こそしっかりと握る。しかし、今回はなに も感じることはない。
取っ手はなにに止められることもなくあっさりと回り、扉は開いた。なんとも 間の抜けたことに、レイは開いた扉を思わず呆然と見つめてしまう。仕方なか ろう、あれだけ悩んでおきながら、まさかこんなにも簡単に結果が出るなどと は思ってもいなかったのだから。
開かれていく扉に、自然身体がかたくなる。
この向こうに眠る誰か。その顔を見ずにはいられない。問いたくてたまら ない。なぜかは知らない。ただ思うのだ――あなたは誰、と。
部屋の中は予想以上に明るかった。どうしてか閉められていないカーテ ンから、ぼんやりとした光が広がっていた。これが星の光なのか、庭か どこかの照明が入りこんでいるのかはわからなかったけれど、部屋の右 手、壁際の半ばほどに置かれたベッドをそれと判別するには充分だった。
ベッドのふくらみは、昼間見たものと変わりがない。眠る誰かが、確かにそこにいた。
レイは一歩一歩ベッドに近付いていった。背筋にぞくりとしたものが走る。手足 の先は驚くほど冷たいというのに、心臓だけがうるさいほどに音をたて、身体 の奥からなにか熱いものがこみあげてくるようだった。
ベッドに眠るその人の顔が、薄暗い中でようやく見えてくる。やわらかそうに 波打つ髪が枕に散っている。この明るさでは顔色などわかろうはずもないが、その 人はこのまま目を覚まさないのではないかと、それほどに深く眠っているよう だと、そんな風に思った。
閉じられた瞳の向こうには、一体どんな色が見えるというのか。
薄暗がりのなかでようやくその人の顔がわかってくる。ごく近くで、思わ ずその人の頬に触れ、レイは息をつめた。身体が熱いのか冷たいのかすらもう よくわからない。頭がぐらぐらして、けれど目の前のその人をただ見つめる ことしかできなかった。
――ああ、とレイは思った。
この人だ、と。やっと会えた、と。
どうしてか、なぜとは思わなかった。なぜあなたがここにいるのかと。な ぜギルバートがあなたをここに連れたのかと。
確かにそれまで頭を占めていた疑問が、一瞬で霧散した。いや、疑問は 疑問として依然として残っている。なにひとつとして解決してはいない。け れど、そんなものは今のレイにとってはどうでも良いことだった。
ただ、いつか求めた誰かが、いつか消えてしまったと思っていた誰かが、今 この場にいるという、その事実だけがレイの胸を熱くした。

あの日のあなたの慟哭は、身を裂くような叫びは未だにはっきりとこの身体 が覚えている。この身の全てがあなたに同調し、あなたを求めたというの に、あなたはそれを知ることなく消えていった。
消えていったと――思っていた。
けれどあなたはここにいる。あなたが『誰』だろうと関係がなかった。あな たはあなただ。自分が求めた、ただひとりの人。

頬に触れた指先が、その人の顎のラインをたどる。こんな風に痩せて骨ばって しまっている彼は、一体どれほどの間眠り続けていたのだろう。
会いたかった。
声にならない声が聞こえたような気がした。それは紛れもなくレイ自身の声 で、そのときレイが確かに思ったことだった。
この気持ちをなんと呼べば良いのだろう。胸の奥が熱い。心臓が締め付けら れるようで、けれどそれは決して嫌なものではなかった。
その人の波打つ髪に触れる。ふわりとやわらかなそれがどうしてか嬉しく て、レイは泣きたくなった。
――嬉しい。そう、嬉しいのだ、自分は。
部屋が暗すぎて髪の色はわからない。けれど、この人はきっと太陽と同じ色の 髪を持っているのだろうとレイは思った。レイは地球へ降りたことはないけれ ど、どうしてか地球から見た太陽の姿を思い浮かべることができた。それが本 で読んだものか、テレビで見たものか、話に聞いたものかはわからないけれど。
やわらかな髪が指の間を通るのが心地良くて、何度もその人の髪を梳く。
手に残った髪のひと束を指先にくるりと巻き、レイはふとその髪に唇を寄せた。そうし て間近からその人の顔をのぞいて、気づいた。
あのときこの部屋で、ギルバートはこの位置から彼を見ていたのだ。
整った顔立ち、なめらかな肌。光の下で見たら、この人はどれほど美しいのだろ う。日の差しこむ部屋でこの人を見つめていたギルバートはどのようにして彼を 見つめていたのだろう。
そんなことを考えていたせいだろうか。
一瞬の激しい衝動にかられ、気づくとレイの目の前にはその人の金の髪と、視界 の隅には輪郭が見えて。唇には、やわらかなものが触れていた。
慌てて身を起こし、真上からその人を見下ろす形になってやっとレイは状況を 把握した。これがキスだという自覚はなかった。ただ、唇が触れ合っただけだ。
どくん。
ようやくおさまりかけた心臓が、再びうるさく音をたて始めたと気づくのには少 しだけ時間がかかった。
わずかだが、眠っていたはずのその人の睫毛が動いたように感じた。そんなはず はない。レイは声に出さずに呟いた。……そんなはずは、ない。
ゆっくりと彼の目は開かれる。部屋が暗いから瞳の色は見えない。――否、ぎら ぎらと光るそれに、レイは目を奪われた。
彼が身を起こしたと思った直後だったろうか。

レイの周りの風景は、一瞬のうちに反転した。