愚かな男の話


愚かな男の話を知っているか、とギルバートは問うた。
それはまるでその日の夕食のメニューを訊くようなほどに気軽に問われたもの で、レイは思わずそのまま頷きかけたものの、その問いを頭の中で繰り返すと わずかに眉を寄せた。
ギルバートは目の前に置かれたティーカップに手を伸ばす。
カップがソーサーにすれて小さな音を立てるのを見やりながら、レイはギル バートの考えをはかろうとするが、彼の様子からそれが見えるはずもな く。しかしギルバートがレイの返事を待っているだろうことだけは見てとれ、レイ はごく小さく溜息をついた。
「……それは、どういったものなのですか?」
問い返すレイに、ギルバートは満足げに唇の端を上げるとカップの紅茶を 口に含む。香りを楽しむようにひと呼吸おき、カップを下ろしたギルバート は悠々と足を組み、組んだ両手を膝の上へと置いた。
「どうもなにも、云ったとおりだ。愚かな男――人を、世界を、自身さえも 恨み、憎み、滅ぼそうとしたひとりの男の話さ」
ギルバートの語り口は、まるで神話のような昔話を話すようなものだった。なんの気もなく噂 をするようなギルバートの言葉を、レイはただ待っていた。
「まぁ、結局のところ世界を滅ぼすには至らなかったようだけれどね」
なぜ、と口に出さぬままに問うと、ギルバートはさも当然そうに笑う。
「悪は滅びるものと決まっているだろう?」
さらりと告げるその言葉に、レイは思わず首を傾げた。常ならばギルバート が口にすることのない単語が、その中にはあった。その意をはかりかね、レ イはぽつりと呟いた。
「悪……その方は、本当に悪なのでしょうか」
「というと?」
「誰かをのみならず、自身や世界までも憎み――あまつさえ滅ぼそうとする など、そんなことに至るには相当の理由が要るはずです」
引っかかったのはその点だった。正義や悪というものは一義的ではありえな い。思想や立ち位置、考えひとつで正義と悪は反転するものだ。それを、ギ ルバートが知らぬはずはない。
だというのに、ギルバートは云ったのだ。ひとりの愚かな男を、悪であると。
「理由、か」
「ええ」
「そうだな、レイならその男に『愚か』以外の言葉を当てはめられるかもしれない」
ギルバートは目を細めてレイを見やる。
「その男は、人のエゴによってのみ生み出された。親の欲望のままにコーディネ イトされた子どもとは違う、また特別な存在でね。彼はその身を望まれながらも 彼自身を望まれたことがなく、だからこそ欠陥が見つかった途端に不用品として 扱われた。――彼は人の闇を知りすぎた。人の、世界の、誰も見ることのなかっ た見る必要のなかった闇に身を堕とし、結果彼は全てを憎み、世界を滅びへと向かわせた」
遠い誰かに想いを馳せるように、ギルバートは語る。それはまるで語り継がれた 叙事詩のように。天から地に落ちた英雄の生涯を語る一族の末裔のように。
「――……愚かという他にないだろう?」
金色の瞳に浮かぶものは、かの者に対する嘲りか蔑みか、それとも憐れみだとで もいうのだろうか。
ギルバートの心が読めず、しかしレイは彼の問いに再び首を傾げることで応 じることとなった。
「確かに、云ってしまえばその人のしたことは愚かかもしれない。けれど、な にか……違う気が、する」
「ん?」
「本当にその人だけが悪いのでしょうか。その人が悪で、悪だから滅びなければな らなったなんて……俺にはそんな風には思えない」
ギルバートの云う意味がわからないわけがない。しかし、事情が事情ではあるが私怨に近いものから世界を恨んだ とはいえ、その人がただ単純に悪だと決めつけられるものなのだろうか、と思った。
人はそれほど単純ではない。
その人物は、もしかしたら他の誰よりも世界を真っ直ぐに見続けていたのかもしれ ない。世界になにかを期待していたからこそ、世界への失望と絶望とが反動とな って彼を襲い憎しみへと変えたのではないかと、そんな風にレイは思う。
「誰かが――彼の周りの世界が、もう少しだけその人にやさしければ、きっとそん なことにはならなかったのに」
なぜそのような考えに至ったのかは自分でもわからない。
それでも。
「俺は、そう思います」
ギルバートは揺らぐことのないレイの瞳の蒼に驚いたように目を見開くと、次い でレイの頭に手をやってさらりとした髪に指を通し、やわらかに微笑むと絡めた 髪に唇を寄せた。