視 線  (百題46:視線)


 じぃっと見つめてくる。
 その視線はひどくくすぐったくて――そしてどこか、苦かった。


リビングにいろと云ったのに、その視線はいつもこちらのあとを追ってくる。
なにをするでもなく、ただ見ているだけだということがわかっているからあ えてこちらから声をかけることはない。
ラウがいつものようにコンピュータに向かって仕事をしているのを、レイは 大人しく見つめている。それだけのことだった。
「ラウ」
けれどその日は、どういうわけかレイはラウに声をかけてきた。
なに気にかかることでもあったのだろうか。無視をすることもできず、ラウは きりのいいところで手を止めるとレイを振り返った。
「……どうした、レイ?」
机から離れ、部屋のほぼ中央に立ち尽くすレイに視線を合わせて膝を折る。幼 い顔を前に微笑んでやると、子どもはひどく嬉しそうに笑った。
「あのね、ラウ」
この子が自分相手にどうしてこんな顔をするのかラウにはわからない。そう なるよう仕向けた部分がないといえば嘘になるが、それでもこれほどまでにな るとはラウ自身予想をしていなかった。
レイはラウの顔をのぞきこむように少し背伸びをすると、不思議そうな顔で こくりと首を傾げる。
「どうして、おこってるの?」
無邪気な顔で、子どもは不可思議なことを云う。
その日になにがあったわけでもない。ラウはどこも変わらないというのに、レイ はいったいなにを云っているのだろう。ラウは表情を変えずに、けれど内心眉を ひそめながらそう思った。
「怒る? 私が?」
問うと、レイは「ちがうの?」と呟き、今度は反対側に首を傾げる。
どうしたものかと頭を撫でてやると、レイはくすぐったそうに肩を竦め、また 嬉しそうな表情を浮かべる。
けれどやはり気になるのか、頭に触れたラウの手を小さな両手で包み、胸の前 でしっかりと握るとラウを真っ直ぐに見つめてくる。
「……じゃあ、どうしてないてるの?」
ぴくり、とわずかに揺れたラウの指先に気づき、レイは両手の中のラウの手を まじまじと見つめる。
レイがラウのなにを見てこう云ったのかはわからない。
怒っているだとか泣いているだとか、どうして今の自分を見てレイ がそう思うのか、ラウには見当もつかなかった。
ただ、やはりこの子にも自分たちと同じく『なにか』を感じる力があ るのだろうと、それだけを思った。
オリジナルは経済に対しての先見の明があり、自分は少々それとは方 向性の違う力を持っている。この子もまた、似たようでいて違う力を持 っていると、そう考えるのが妥当だろう。
「どうして私が泣いていると思った?」
見てごらん、私は泣いていないだろう――そう云って笑ってみせる と、レイはまたきょとん、とした顔になる。
もしかしなくとも、あまり考えずに口をついた言葉なのだろう。考 えこむようにレイは俯いた。
「ん……だって」
考えようとしても答えが見つからないのか、レイはラウの手を握った まま指先をもじもじと動かす。
焦れたようなその様子に苦笑し、ラウがもう片方の手でレイの頭をゆっく りと撫でると、レイは驚いたように顔を上げ、次いではにかむように頬を染める。
「――っ」
突然、ぱっと放した両手を広げてレイがラウに飛びつく。予期していなかった衝 撃に、ラウはわずかにバランスを崩したものの、レイの体重が軽かったこ とが幸いして2人して床に転がるようなことにはならなかった。
抱きとめ、けれど腕の中のレイはすぐに身体を離して至近距離からラウの瞳 を覗きこむ。
そうして、ラウをじぃっと見つめる。
「だいじょうぶ、ラウ」
「……」
「だいじょうぶ」
にこにこと笑う、レイの真意などわかろうはずもない。
なにが大丈夫なのかと、しかし問うても明確な答えなど得られないだろう と考え至り、ラウは笑みを崩さぬままに内心で溜息をついた。



 特別なことなどなにひとつしてはいない。
 ただ、レイはいつもラウの前で嬉しそうに笑っていて、
 ラウもまたレイに微笑みかけていたと、それだけのこと。
 そのときのラウの考えをレイが知るはずはないし、
 レイの気持ちなどラウはわかろうともしていなかった。
 ただそれだけの、わずかな時間。
 ――けれど確かに、彼らはそこにいた。