数週間ぶりに見るその少年は、以前とまったく変わらない印象でもってそこに立っていた。 「少々お時間をいただけますか」 廊下で偶然はちあわせたものかと思っていたが、どうやら彼はアスランを待っていたら しい。真っ直ぐに自分を見つめてくるレイの発したその言葉より、アスランは現在の状 況をそう判断した。 なにかあったのだろうかと思いながらも頷くと、 「では、こちらへどうぞ」 それだけを告げてレイはアスランに背を向けた。 相変わらず言葉の少ない少年だと思いながらも、誰に対しても変わらぬ態度で接する 彼と話すことはアスランにとってはある意味楽しみであったもののひとつで。 黙々と歩き進めるレイを追いながら、しかしアスランにはその沈黙は決して苦手な類の ものではなかった。 しばらく進むと、レイはある部屋の前で足を止めた。 そこは各軍人に与えられる個室のひとつで、扉脇の表示を見るに空き部屋のようだった。 その中へと促され、アスランは部屋へと足を踏み入れる。部屋の中は薄暗く、しかしア スランに続いて入ったレイは明りをつけようともせずに扉を閉めた。 照明がなくとも室内が暗闇となることはないのだけれど、それでもなにかをするには 暗すぎるのではないかと疑問に思いながら、アスランはレイを振り返る。 レイは、真っ直ぐにアスランを見つめていた。 「――特務隊フェイス所属、アスラン・ザラ」 「え?」 突然に名を、その所属部隊と共に呼ばれ、アスランは目を見開く。なぜレイが今そのこ とを告げようというのか。 アスランが特務隊だということは、軍服の胸元に輝くフェイスのバッジを見れば明らか ではあるのだけれど。 「銃はお持ちですか」 「いや……」 問いの意図が読みきれないまま、アスランは首を横に振る。 確かにフェイス所属の軍人には、平時であっても銃の携帯が許可されている。しか しアスランは、ギルバートから渡された専用のそれを持ち歩こうとはしなかった。 今の自分には、銃などは必要がないと思えたから。 しかしなぜそんなことを、そう尋ねようとアスランが口を開くより先に、レイは一度 軍服の合わせ目に滑りこませた手を、アスランに向けて真っ直ぐに突き出した。 その手には、小さな銃が握られていた。 目立たぬよう服に忍ばせることのできる薄く小さな銃は、ギルバートがアスランに与 えたものと同じ型のもので。小さいながらに高い殺傷力を持っているそれは、フェイ スの人間にのみ与えられるのだと、確かギルバートはそう云っていた。 「君は……」 レイの向けた銃口は、真っ直ぐにアスランの心臓に向けられており、銃を手にするレ イの目に迷いはない。 アスランの背筋に冷たいものが走った。思考が停止し、浮かびかけた考えも霧散する。 しかし、直後にレイがとった行動はアスランの予想をはるかに裏切るもので。 「では、これをお使いください」 その言葉に、アスランは思わず眉を寄せた。 レイは、つい先刻までアスランに突きつけていた銃を片手のまま持ち直し、アスラン に手渡した。 反射的に受け取ったアスランの手の中で、小さな銃は鈍色に輝いて見えた。 「これを……」 一体どうしろというのかと、アスランは視線を手元からレイにへと向ける。 レイはアスランの視線を正面から受け止めながら、胸の階級章の裏から見覚えのある 小さなものを取りだし、アスランの目の前に掲げてみせた。 それはアスランがギルバートに渡された銀のバッジ――フェイスであるという証そのもので。 やはりレイもフェイスだというのか。思考がやっとのことで動きだし、アスランは今さら のようにその考えにいたった。 プラントを出る際に、そしてこの地ではルナマリアに聞いた、ミネルバにいるというフェ イスの話。 彼らの言葉を疑っていたわけではないけれど、それでもレイがこんな風に自身の身分を 明かすとは、まさか思ってもみなかった。 「特務隊フェイス所属アスラン・ザラ。デュランダル議長からの命令を伝えます」 アスランの考えを知ってか知らずか、レイは淡々と言葉を並べていく。 表情ひとつ変えずに。 「俺を――レイ・ザ・バレルを撃て、と」 「な……」 アスランは唖然とすることしかできなかった。 ギルバートからの命令、とレイは云った。そして自分を撃て、と。 「聞こえなかったのですか、アスラン・ザラ」 「――聞こえているが、しかし」 アスランの動揺に気づいているのかいないのか、レイは急かすようにアスランを見 る。そうしてアスランに行動に出る意志がないだろうことを見てとると、いくらか焦 れたように眉をひそめた。 「あなたは議長に忠誠を誓ってフェイス入隊を決めたのではないのですか」 ならば命令に従うべきだ、とそうレイは云った。 しかし、とアスランは思う。 ザフトへ戻ることを決めたのは自分だ。そして、特務隊フェイスに所属するこ ととなったのは議長の計らいで。己の信念のままに動けるように、と議長は云っ た。だからアスランは赤を着て、フェイスのバッジを受け取ったのだ。 しかしだからといって、いくら議長の指揮下に入ったとしても、こんな命令をど うして聞くことができるだろうか。 「俺は……」 命令だからといって目の前のこの少年を撃つなど、できるはずもない。そこに議長 のどんな思惑が潜んでいるかなど、今のアスランが思い至るはずもなく。 手の中の銃を見つめたまま戸惑うアスランに焦れたのか、それとも呆れが先にきた のは、レイはやや乱暴にアスランの手を掴み、引き寄せる。 「――っ!」 アスランの手は、レイの胸元に突きつけられていた。銃を握りこんだ形のままそのト リガーにはアスランの指がかけられ、その上にはレイの右手が重ねられていつでも 引鉄を引ける位置にあった。 振り払おうとしても、レイの手はきつくアスランを引き寄せたまま微動だにしない。 その蒼い瞳は、真っ直ぐにアスランを見据えていた。 撃て、と瞳は語る。 しかし、それでも。 アスランはゆっくりと首を横に振る。できるわけがない。できたとしても、彼が傷 つくのは明白だというのに、なにを云っているのだ、彼は。 そうして感じるのは、いつか目の当たりにした恐れ。こんな風に、なにか自分よりは るかに大きなものを見たと思ったことが、あった。 かつても自分は、同じように誰かに銃を向けたことはなかったか? 思い出すのは、穏やかな表情から一変して、決意した者の顔つきとなった少女の声。 ――アスランの信じるものはなんですか。いただいた勲章ですか。お父様の命令ですか。 ――命令だというのなら、わたくしを撃ちますか。ザフトのアスラン・ザラ! 自分が信じ、従うものは。 あのとき、決めたのではなかったのか。 本当に守りたいものを守るために、自分がなにをしたいのか、どうすべきか。その 先になにがあるかは知れないが、それでも進みたい道を、自分は見つけたのではな かったのか。 肩書きでも命令でもなく、ただそうでありたいと願うものは、最初から決まってい る。そう、決めたのだから。 「俺は」 レイの目がわずかにひそめられた。アスランの手を握る彼の手のひらがとても冷た いことに、アスランは今になって気づく。 アスランは、今度こそ真正面からレイを見据え、告げた。 「たとえ議長からの命令であろうと、その命令に従うことはできない」 「議長の信頼を裏切るというのですか」 どこまでも素直なレイの物言いに、アスランは小さく苦笑する。 ギルバートを裏切る、確かにその通りかもしれない。議長によりフェイスの権限を与えら れながらも、アスランは議長の命令に従わないと、ここで明言してしまったのだから。 けれど。 「そう思われても構わない。それでも俺は、命じられるままに誰かを撃つことなどできない」 ギルバートも云っていたではないか。己の信念に従えと。 自分にできるだけの力があるのなら、できるだけのことをやるまでだ。それを決める のは、誰でもないアスラン自身なのだから。 「それがあなたの返答ですか」 「ああ」 「――わかりました」 レイは呟くと、右手から力を抜く。ようやく片手を解放されたアスランは、し かし自らの腕を下ろす前にレイの胸元で手を開いた。手のひらに乗る小さな銃を 、レイは一度じっと見つめてから受け取り、元あった場所へとしまう。 これからどうなるのだろう、と心配にならないわけがない。けれど、今はこう して彼を傷つけずにすんだことに、アスランは安堵していた。 当のレイがどう思っているかなどは、まったく見当がつかないのだけれど。 レイの表情は、それまでと今とでもまったく変わるところがない。感情の読めな い冷静な目でアスランを見つめたまま、レイは先刻までアスランの手をきつく握って いた右手を差し出した。 「合格です」 「は?」 そのとき、レイの表情がわずかに緩んだように見えたのはアスランの気のせいだろうか。 「あなたは合格だと云ったのです、アスラン・ザラ。これからもよろしくお願いします」 差し出された右手は握手を求めていたのだということに気づき、アスランはそのパイロッ トらしからぬ細い手に触れる。 そうはしたものの、アスランにはまだよく現状が把握できていなかった。 「しかし俺は、命令に……」 「命令にのみ従う兵などただの駒でしかありません。議長の必要としているものはそ んなものではない。デュランダル議長に忠誠を誓い、しかし自らの意志で動くことの できる人間――それが、我々フェイスに必要なのです」 アスランの手をきゅっと握り返し、レイは唇の端をわずかに持ち上げる。 それは友人に対しての親しげなものとは異なる、もっと好戦的な、共に戦場を駆けた戦 友に対するそれのように思えて。 このときやっと、アスランは知った。 自分はレイに認められたのだと。客人ではなく、ひとりの軍人として。 ――けれど、とアスランは思う。 頭のどこかで警鐘が鳴っていた。 この子は危険だ、瞬時にそう思った。この考えは危険だ。彼が自らの意志で 動いていることには間違いないけれど、しかしなにかが違う、とアスランは思った。 レイは自らの意志で動く、と云った。けれど彼の場合、それこそが議長の考えのま まのようにも見えて。あえて悪く云ってしまえば、これでは駒どころか操り人形のようだ。 彼はきっと、議長――ギルバートのためならばその命をも投げだすだろう。命令 のために、自らを撃たせることも厭わなかった彼なのだから。 だからこそ、思う。 彼は危険だと。 それがこの先どんな結果をもたらすのかはわからない。 それでもアスランには、眼 前に不安と見えない恐れが広がっているように思えて。 ――どうしようもなくとも、自分にできる限りのことをしなければならない。 そう自身に語りかけ、アスランはきつく手を握りゆっくりと目を閉じた。 |